大判例

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東京高等裁判所 昭和35年(う)2161号 判決

被告人 馬場甫 外一一名

主文

原判決中被告人らに関する有罪の部分を破棄する。

被告人らはいずれも無罪。

理由

第一控訴趣意および答弁

本件控訴の趣意は、弁護人安達十郎の控訴趣意書、第二控訴趣意書、弁護人林百郎、同風早八十二の各控訴趣意書、被告人馬場、同田中、同李、同山川、同金子、同村田、同福沢、同宮原、同神戸の各控訴趣意書に記載されたとおりであり、これに対する答弁は検察官吉良敬三郎の答弁書、答弁補充書に記載されたとおりであるから、これらを引用する。

右の弁護人および被告人本人らの控訴趣意は、事実誤認、原判決の適用した爆発物取締罰則一条、三条の憲法違反、同法四条に関する解釈の誤り、共謀共同正犯理論に関する誤謬、その他きわめて多岐にわたつているが、これらの主張のうち第一の前提をなすのは、いうまでもなく、被告人らはいずれも無実であつて原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があるという点であるから、まず、この点につき、以下項を分けて判断することとする(なお、本判決で使用した略語は別紙略語例のとおりである。)。

第二駅前派出所事件

一  原判決の認定した事実

駅前派出所事件として原判決の認定した事実の要旨は、

「被告人神戸、同李、同小松、同田中、同馬場、同山川は昭和二七年四月二二日長野県上伊那郡辰野町大字辰野一七九五番地の被告人李方に会合し、被告人李、同小松がダイナマイトをもつて駅前派出所を爆破することを共謀し、これに基づき被告人李、同小松は氏名不詳の男一名と共に、同月三〇日午前一時すぎごろ、半分に切つて土をつめたウイスキー空びんに四五グラムのダイナマイト三本を埋め、その一本に導火線を付した雷管を装着し、導火線の他端に発火薬として産制用ゴムサツクを二重にして中に塩素酸カリと砂糖の混合物を入れたものを糸で結着したものおよび濃硫酸入り小びん、すなわち右発火薬の部分を濃硫酸の小びんに差しこめば濃硫酸によりゴムサツクが溶解し塩素酸カリとの化学反応により発火し導火線を燃焼させてダイナマイトを爆発させる構造をなす時限発火式ダイナマイトを携えて辰野駅前派出所前に至り、もつて同所において治安を妨げる目的で爆発物を所持した。」

というのである。

二  はじめに

関係証拠によると、原判決認定の日時に辰野警察署員が駅前派出所などの襲撃に備えて、派出所と道路を隔てて南側にある店舗の軒下、駅の石炭置場および付近の三叉路で数名ずつ警戒ないし見張りをしていたところ、駅前の店舗ほたる荘付近に三名の男がいつしよに現われたこと、そしてそのうちの一名(以下「甲」という。)は派出所のそばまで行つて中の様子を見ているようであつたが、やがて林楽器のほうへ通ずる路に姿を消したこと、すると次いで他の二人がなにか話し合つたのちその一人(以下「乙」という。)が派出所に近づいたのでほたる荘軒下で警戒中の警察官が声を挙げて飛び出したところ同人は駅構内に逃げこみ、石炭置場で見張つていた警察官が追跡したがついにこれを見失つたこと、いま一人の男(以下「丙」という。)はこの時もと来たほたる荘の角から南に通ずる路を走つて逃げたので、警戒中の西沢篤己巡査部長がこれを追つて駅前から西南方に三百数十メートル離れた上伊那郡朝日村平出一五五七番地所在の豚小屋まで尾行して行き、丙がその豚小屋から姿を消したあとで調べてみると、小屋の南側板壁の外部に積み重ねられていた三個の餌箱の真中の箱の中に、半分に切つて土をつめたウイスキー空びんの中にダイナマイト三本を埋め、ダイナマイトの先に一五センチメートル位の導火線、雷管、産制用ゴムサツク(以下「サツク」という。)に発火薬の入つたものを付着させ、さらにこれらを茶色木綿風呂敷に包んだものおよび中古軍手一双が一緒に入れてあり、また小屋の内部西南隅の藁の中に硫酸入りの小びんがおいてあつたこと、右の豚小屋は小島英市の所有であるが、同人は昭和二五年秋被告人李の実父李景煥にこれを貸与していたこと、そして、他方、遠山健一巡査部長ほか二名は、同じく午前一時すぎ駅前派出所の東方約三〇メートルの三叉路付近で警戒をしていたところ、被告人小松が派出所のほうから走つてきて通りすぎようとしたので、挙動不審者として職務質問をし、派出所に任意同行したことをそれぞれ認めることができる。そして、その時刻および場所の関係、当時の人通りの状況などからすれば、前記人物甲は被告人小松と同一人物であるとみるのほかなく、(弁護人は、この点につき、駅前に張りこんでいた警察官らの証言によれば甲が駅前派出所のそばから林楽器のほうへ通ずる路に姿を消してから次の乙を追つて飛び出すまでには数分以上もあつたことになつていて、そうであれば乙を追うまでの間に甲はとつくに三叉路を通過して林楽器にゆうに達しているはずであるのに、三叉路で被告人小松に職務質問をした遠山巡査部長の言うところによれば、同人が三叉路のところで警戒していたところ、派出所のほうで同僚の声がしたかと思うとまもなく被告人小松が派出所のほうから走つてきて自分のいた所を通り過ぎて行つたので追つて行つて職務質問をしたというのであるから、甲の行動との間には重大な矛盾があつて、被告人小松が甲であるとはいえないと主張する。しかし、被告人小松が派出所のそばから離れて三叉路までの途中で立ち止まり乙、丙の様子を窺つていたところ警察官が乙を追つて飛び出したのを知つて身の危険を感じ林楽器のほうへ走り出したと考えれば、その時間的な関係は十分説明がつくわけであつて、これをもつて甲と被告人小松との同一性を否定することはできない。)、また、前記西沢篤己の証言するところによれば、同人が追跡尾行した丙は被告人李であるというのである。

これによつてみると、以上の事実は、被告人小松、同李といま一人の氏名不詳者(乙)とが意思を通じてともに辰野駅前の派出所近くに現われたものであること、そしてそこに現われた目的が駅前派出所となんらかの関係のあるものであることを強く疑わせるものである。そしてまた、以上のことと、被告人李だといわれている丙のその際の行動、さらには丙がその場から逃げたのち深夜なぜ前記の豚小屋まで行つたのかという疑問に加えて、同被告人が右豚小屋から立ち去つたのちそこから前記のような時限発火式ダイナマイト等が発見されたことをあわせ考えると、同被告人はほたる荘のところまで右の爆発物を携帯して行つたところ、警察官の発見に会つてこれを豚小屋まで持つて逃げ同所に隠匿したのではないかという疑いがかなり強く生ずることはいかにしても否定しがたいところである。しかしながら、被告人小松および同李は捜査段階においてもその点につき全然自白をしておらず、いま一人の乙は氏名もゆくえも今もつて全く不明なのであつて、右の事実に関する原判決認定の当否はすべて情況証拠による判断にまたなければならないのであるから、右の被告人李の駅前派出所付近における爆発物携帯の点についても、関係の情況証拠をよほど慎重に検討してみなければならない。

なお、原判決の認定した事実中、四月二二日に被告人李方において駅前派出所をダイナマイトで爆破する旨の爆発物使用の共謀が行なわれたとの点は、駅前派出所前における爆発物所持の事実につき関係被告人に共同正犯として責任を負わせる基礎となる事実であるばかりでなく、もしこの事実が認められるとすれば、爆発物取締罰則四条によつてそれだけでも共謀者は処罰されることになるのであるから、右の四月二二日李方会合の内容もまた関係者の供述を検討することによつて十分吟味される必要があるこというまでもない。

三  被告人李の爆発物携帯について

(一)  西沢篤己の証言の検討

すでに述べたところから知られるように、被告人李の辰野駅前における爆発物所持の疑いは、同人が駅前から逃げて実父李景煥が借りていた前記豚小屋まで行つたことおよび同人が立ち去つたあとで豚小屋の中から前記のように時限発火式ダイナマイト等が発見されたことによるのであつて、すなわち、以上の事実は、被告人李が当夜駅前に持参所持していた右の爆発物を豚小屋まで運びそこに隠匿して立ち去つたのではないかという疑いを抱かせるのである。ところで、この疑いの基礎となる同被告人の行動を証明するものは、単身でこれを豚小屋まで尾行したという西沢篤己巡査部長の証言以外にはないのであるから、以下その証言の内容をさらに詳しく検討してみることとする。

(1) 証言の内容

西沢篤己の証言は、原審、当審を通じ、

「自分は四月三〇日午前一時ごろ駅前広場のバス停留個所のバスの陰から見張つていると、駅前派出所と道路を距てて南西角にあたる飲食店ほたる荘横の小路から三人の男が現われ、そのうちの一人がほたる荘の前を通つて派出所内をちよつとのぞき東方の林楽器方面に立ち去つた。残りの二人は、ほたる荘の前の軒下に入つたが、五分位して一人が派出所正面入口に行き、中を窺つた際、張り込んでいた田中、矢崎両巡査が飛び出したところ、軒下に残つていた男がもときた道を引き返し南に走つて逃げた。当時は曇天であつたが、駅の大きな電燈がついていて、広場は相当に明るかつた。自分は三人の男を発見したときから、終始バスの陰から見ていたが、右の南に走つて逃げた男は、前に顔を見たことのある被告人李であつた。同人は帽子をかぶらずに、雨外套ないし合羽をきており、李とわかつたのは、一〇メートルをおいて見たときであつた。」

「私は李を追跡して、天竜川大橋を渡り、辰野郵便局手前の右に入る小路を通り、五〇メートル位先を李が走るのを見たけれども、牛乳処理工場付近で彼を見失つた。駅前から牛乳処理工場まで追いかけてくるのに三分位かかつた。それから処理工場の裏手に行くと、ゴトンと箱でも動かすような音がしたので、そちらを見ると、その音のしたあたりに人影が見え、その人影が処理工場のほうへ出てくるのを見るとそれは李であつたが、私との距離は一五―六メートルであつた。李が兇器か危険物を隠したのではないかと思つて音のしたほうに行くと、それは小島英市の豚小屋であり、その横にあつた餌箱の一つの中から導火線つきのダイナマイト、軍手などを発見した。」

というのである。

(2) 尾行の際の目撃状況

右の西沢篤己の証言と前に認定した豚小屋の位置とを総合すると、西沢巡査部長は相当の距離にわたつて被告人李を尾行したことになるから、その間にその携帯品に関し西沢の目撃したところをまずみてみなければならない。ところが、この点に関し、西沢は原審公判で、弁護人の反対尋問に対し、李と思われる男を追跡尾行した際その男は合羽(「雨外套のようなもの」ともいう。)を着ていて、小さいものを持つていたかどうか分らないが、大きなものは持つていなかつた、合羽を着てガバガバしていたから判らないが、手には持つていなかつたと証言し、なお弁護人が豚小屋から押収された風呂敷に、押収のウイスキーびん、土砂若干、麻紐、軍手などを包んだうえ、李はこの位のものを持つていたかと問うたのに対し、「手には持つていなかつたと思います」と答えているのである。そして、この証言は、西沢が尾行中に被告人李だという丙に対し職務質問をしようとしなかつたことによつても裏づけられる。そもそも西沢ら警察官が駅前派出所付近に張り込んでいたのは派出所が当夜なに者かによつて襲撃を受けるとの情報が警察に入つていたためであるに相違なく、その張り込んでいるところへ挙動の不審な三人の男が現われ、逃げ出したわけであるから、その一人である丙がなにかを持つていることがわかれば、西沢としてはこれを呼び止め職務質問をしてその持つている物を確認し証拠を確保しようとするのが当然執るべき措置なのではあるまいか。しかるに西沢の証言によれば、同人は丙のあとをつけて行けばなにをしようとしたかわかりはしないかと思つてあとをつけて行つたというのであつて、まさにそれは単なる尾行なのであり、豚小屋に至るまでの間において職務質問をしようとした形跡は全く認められない。このことは、丙が前記の風呂敷包のようなものを持つているのを見なかつたという西沢証言の正しさを物語るものといつてよいであろう。

さて、この西沢証言はなにを意味するのであろうか。相手は合羽を着ていたからその下になにを持つていたかわからないというのならばともかく、同証人は「小さいものについてはわからないが、大きなものは手には持つていなかつた」と断言的に答えている。これは、合羽を着ていても大きいものを手に持つていればわかる状況にあつたという趣旨であろう。そして、弁護人が証拠品によつて風呂敷包を作つてみせたのに対しても「手には持つていなかつたと思います」と答えているのであるから、西沢に尾行されていた際丙はのちに豚小屋で発見された時限発火式ダイナマイトなどを入れた風呂敷包を手には持つていなかつたとみるほかはない。では、手には持たず、合羽の下で身体にでもつけていたのであろうか。それならば西沢に認識できなかつたということもありうるわけであるが、しかし、ものがダイナマイトの入つたウイスキーびんや硫酸の入つた小びんなどを風呂敷に包んだもので、しかもそれを駅前へ持つて行つてすぐに派出所襲撃に使用するつもりであつたとしてみると、これは手に持つて行くのが自然であるし、もしそうであるとすれば発見されて逃げるとつさの際にこれを腰などにつけ直す余裕があつたとは思われない。としてみると、西沢の前記証言は、被告人李が逃げる際原判示の爆発物を携帯していたことを証明できないばかりでなく、かえつてそのような物を携帯していなかつたのではないかという疑いを強く生じさせるものである。

もつとも、その夜、原審の再度の尋問で西沢は、その男は合羽のようなものを着ていて、逃げるときには、その合羽が両方に拡がつて何か手にもつているかどうかはつきりわからなかつたのだと述べて、前回の証言を訂正している。しかしさきに引用したように前回の証言が明瞭に述べられており、警察官である証人としてその際ことさらに被告人に有利に虚偽のことを述べるはずもないこと、日が経つた再度の証言の時には前の証言が訴追側に不利益であることに気づきこれを訂正することもありうることなどを考え合わせると、にわかにこの再度の証言をそのまま信用し、前の供述を誤りであつたとするわけにはいかない。

(3) 豚小屋における目撃状況

次に、西沢は豚小屋で被告人李が兇器か危険物を隠したのではないかと思つたとは証言している。たしかにその時の状況、場所および物音が聞こえたことなどから同人がそう考えたということが不自然だとは思われない。しかし、同人も被告人李が問題の時限発火式ダイナマイトなどを豚小屋に隠匿したところを見たわけではないのであるし、そのことから直ちに豚小屋から発見された爆発物をその時被告人李が隠したと断定してしまうわけにもいかないのであるから、このことだけから直ちに前記西沢証言にもかかわらず同被告人が駅前から豚小屋に至るまでの間その爆発物を携帯所持していたとみることができないのはいうまでもない。

(二)  辰野駅構内の方向に逃げて逮捕されなかつた氏名不詳の乙について

駅前派出所付近に現われた三名のうち氏名不詳の乙が辰野駅構内の方向に逃走してゆくえがわからなくなつたことについては前に述べたとおりであるが、その際の情況については、(証拠略)によると、当夜、辰野警察署長の命令をうけて駅構内の石炭置場に西沢篤己、高野安雄、山崎基行の三名(もつとも西沢は間もなく石炭置場からバス停車個所の方に移つた)、ほたる荘軒下に矢崎定造、田中邦一の二名が張りこんでいたところ、前記乙が派出所の正面入口に近づいたので、高野、山崎がワツと声をあげて飛び出したため、その者は鉄道郵便室の横および石炭置場の横を通り抜け、構内線路に出て構内燈の方向に逃げたが、石炭置場の中にいた高野、山崎は、氏名不詳者が傍らを通り抜けた際、石炭置場から出るのに時間をとつたので、乙を追跡したがついにこれに追いつけず、その姿を見失つた、というのである。

思うに、この乙は、本件の証拠のうえではこの辰野駅前に姿を現わしたときに初めて登場する人物で、本件の謀議が行なわれたという四月二二日の被告人李方の会合に関する被告人馬場、同田中、同山川らの自白および山崎定一、田中美作子の裁判官、検察官に対する供述によつても右会談に出席したことになつていない。また、本件の場合、警察官二名が張り込んでいた石炭置場のすぐそばを乙が通つて逃げたのに、ついにそれを捕えなかつたというのは、その際の事情上やむをえないことであつたと考える余地もあるにしても、他面において、あるいは乙が警察と関係のある人間なのではないかという疑いを全く起こさせないともいえないのである。が、それはともかくとして、前に述べたように、乙は、甲が派出所の中の様子を見て立ち去つたのに次いで派出所に近づいた人間であり、ほたる荘軒下で見張つていた矢崎定造巡査の原審における各証言によつてその際の状況をみるのに、甲が立ち去つたのちほたる荘の軒下で乙と丙との間に「交番(あるいは派出所)が留守だ、よし、お前行け」という会話が交されてから、乙が派出所に近づき、玄関のドアのところから中をのぞくようにしたのち、鉄道郵便室の宿直室との間へ行き、派出所の窓から中をのぞいており、やがて下に積んであつた薪のところへかがんだので、「何かした」と思つて飛び出したところ、乙はそれに気づいて逃げ出した、というのである。このような乙丙の会話および乙のこれに引き続く行動からみると、乙が派出所に対しなにかを仕掛ける任務を帯びてそこへ近づいたのではないかという疑いはかなり強いのであつて、そうしてみると、かりに三名のうちのだれかが爆発物のごときものを携帯していたとした場合、この乙が所持していた公算は相当大きいといわなければならない。

(三)  以上のまとめ

そこで、以上述べた諸点を総合して考察するのに、初めに述べたように、のちに豚小屋で発見された爆発物を被告人李が駅前で携帯所持していたのではないかという疑いは依然として消しがたいところである。しかしながら、前述したように、被告人李と思われる丙を尾行した西沢篤己の証言によると、駅前から豚小屋に至るまでの間同被告人がのちに豚小屋で発見された爆発物を携帯所持していたと確認するにはなお疑いが残るのであつて、この疑いはいわゆる合理的な疑いに該当するといわざるをえない。また、他方、駅前から逃げ去つた乙がむしろ爆発物のごとき襲撃用物品を所持していたのではないかという疑いも相当程度存するところからみると、被告人李の爆発物所持に対する右の疑問は一層強くなるのである。さればといつて、乙がこれを所持していたということも、もとより確定されうるわけではなく、そして、いま一人の被告人小松がそのような物を所持していなかつたことは証拠上明白であるから、そうしてみると、ひつきようこの三名による駅前派出所前での爆発物所持の事実は確定しがたいわけであり、その証明が十分でないことに帰するといわなければならない。

四  爆発物使用の共謀について

四月二二日の被告人李方における会合の模様について述べている検察側証拠は捜査段階における被告人馬場、同田中、同山川および山崎定一、田中美作子の各供述ならびに山崎定一の原審証言であつて、これらによれば、当夜右会合に出席したのは右の五名のほか被告人神戸、同李、同小松を加えた八名であり、その席上辰野警察署や駅前派出所を襲撃することが話し合われたというのである。ところが、その襲撃の方法については、火炎びんを用いる話があつたという点では、五者共通して述べているところであるが、ダイナマイト使用のことに言及しているのは被告人田中の各供述と同山川の司法警察員に対する供述と被告人馬場の検察官および裁判官に対する供述であり、これに対して被告人山川の検察官および裁判官に対する供述ならびに被告人馬場の警察における自白はこれについてなんら述べておらず(もつとも、その五・九中村調書には被告人神戸の言つたこととしてダイナマイトのことがちよつと出てくるが、それを辰野町で使用するという趣旨であるかどうかは明瞭でない。)、田中美作子は「ダイナマイトの話は聞かなかつた。」、山崎定一は「ダイナマイトの話は記憶がない。」と述べている。そこで、ダイナマイトのことについて述べている前記各供述をいま少し詳しくみてみると、まず被告人山川の六・一および六・三川又調書には、「警察や駅前派出所等を火炎びんやダイナマイト等で襲撃する話があつた」という供述が出てくるが、抽象的にそれだけ言つているにすぎず、次に被告人馬場の検察官と裁判官に対する供述は、「神戸から火炎びんとダイナマイトでやるという話があつたが、どこになにを使うということはその場では決定されなかつた」という趣旨のものであり、これに対し被告人田中のそれはより具体的で、たとえば五・九川又調書および五・一二熊井調書によると、「神戸から『駅前の派出所はダイナマイトでふつとばしてしまう』という話があつたので、自分は『人がいるではないか』と言つたところ、『あそこにはいない』との返事があり、なお『ダイナマイトなどあるのか』と自分が質問すると、『それもある』と答えた」というのである。そして、以上の各供述を検討してみるのに、(イ)被告人馬場の警察における供述および山崎定一、田中美作子の供述はいずれも前記のようにダイナマイトにつき述べていないのであるが、これらはいずれも同人らが自己に不利益な事実を全面的に述べている際のものであるから、もしそういう話があれば特にこの点だけを隠すということも考えにくいところであり、供述の時期からみて忘れたとも思われない。そうしてみると、被告人馬場がなぜ検察官に対して従来言わなかつたダイナマイトのことを言うようになつたのか、その供述の信用性にも若干疑問が生ずるとともに、それを別としても、ダイナマイト使用の話は、かりにその場にいた個人間の話としては出たとしても、少なくとも全員による論議の対象にはならなかつたのではないかという疑いはかなり強いということができる。(ロ)被告人山川の前記供述は、その内容がきわめて簡単かつ抽象的であるばかりでなく、その後検察官や裁判官に対してはそのことを述べていないところからみても、信用性の高いものということはできず、(ハ)被告人田中の前記供述に現われている同被告人と被告人神戸との会話は、さきに述べたところに照らせば、単なる個人間の会話にすぎない疑いもある、と同時に、その内容は、要するに被告人神戸がその予定するところを語り、被告人田中がこれに質問したというだけのことであるし、被告人馬場のその点に関する供述は、かりにこれを信用するとしても、その内容は被告人神戸から話は出たが結局決定されなかつたという趣旨に帰着するのである。したがつて、以上の諸点を総合して考察すると、当夜の会合で駅前派出所に対するダイナマイト使用のことが議題となつたこと自体にも疑いがあり、また、かりにその話が出たとしても、この席上でそのことが謀議され決定されたとみることは無理であつて、これによれば、もし駅前派出所に対するダイナマイト使用の共謀すなわち謀議・決定が存在したとしても、それは四月二二日夜以前か以後かのなんらか別の機会になされたものとみるほかはない。

としてみれば、原判決の認定した四月二二日の爆発物使用の共謀の事実もまた、その証明がないといわざるをえない。

五  結論

以上の次第で、原判決の認定には、駅前派出所前における爆発物の携帯所持および四月二二日の共謀の二点において事実の誤認があるわけで、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、この点の論旨は理由がある。

第三辰野警察署事件

一  原判決の認定した事実

辰野警察署事件として原判決の認定した事実の要旨は、

「被告人神戸、同李、同小松、同田中、同馬場、同山川は四月二二日に前記李達穆方に会合して辰野警察署に対し火炎びんで襲撃することを共謀し、これに基づき被告人田中、同馬場は、同月三〇日午前二時すぎごろ、前夜被告人李から交付されたウイスキーびんに濃硫酸とガソリンを入れびん口に産制用ゴムサツク二枚(その外側一枚に被告人馬場が穴をあけたもの)を重ねその中に塩素酸カリと砂糖の混合物を入れたものを装着しびんを逆さにすれば濃硫酸がゴムサツクを溶解して塩素酸カリと反応して発火しガソリンに引火する構造をなす時限発火式火炎びんを携えて、辰野町大字伊那富二五八一番地所在の辰野警察署に赴き、同署鑑識室東側の窓ガラスと鉄格子との間に右火炎びんを逆さにして置き、もつて右作用によりガソリンに引火して現に人の住居に使用する建造物である同警察署を焼燬しようとしたが、直ちに警戒中の同署員に発見除去されたため、その目的を遂げなかつた。」

というのである。

二  はじめに

(イ)  まず、(証拠略)によれば、前もつて辰野警察署員が署の敷地内で見張つていると、四月三〇日午前二時四〇分ごろに一人の男が署本館鑑識室の窓に近づき、その鉄格子のところに何かを置いた後、立ち去つたので、熊谷巡査が警笛を吹いて追いかけると、その男は伊那富橋の方面に逃げたので、数名の警察官がこれを追い警察署から約五〇〇メートル離れた横川川原堤防で逮捕したが、それは被告人馬場であつたこと、吉田巡査が着衣を検査したところ、上衣ポケツトから発火薬とおぼしきものを入れたサツクが出てきたことを認定することができ、一件記録によれば、被告人馬場は逮捕されると直ちに司法警察員に対し前記窓のところに火炎びんを仕掛けたことを自白し、その後も引き続いて一七回にわたり司法警察員、検察官、裁判官(証人として)に対し放火未遂の事実を詳細に自白していることが認められる。

(ロ)  ところで、(証拠略)によると、右のように被告人馬場が警察署構内から立ち去つたのち、青木巡査が警察署本館鑑識室の東外側窓の鉄格子とガラス窓との間にボール箱を発見し、それを手にとつたところ、鑑識室の東方約一・三メートルの地点⑤(四・三〇宮坂検証調書添付の(D)図の位置番号に合わせる。以下同じ)でボール箱から中のウイスキーびんが抜け落ちたので、ボール箱をすぐ投げ捨てた、これを見た木下巡査はウイスキーびんを蹴つて⑤から南方一・九メートルの⑦の地点(本館署長室の東外側より東方一・七五メートル)まで飛ばした、それから熊谷巡査が⑦にあつたウイスキーびんを警棒ではねたところ、びんは東北方③の地点(鑑識室土台端より三・七七メートル、同東北角より四・三三メートル)まで転がつて停止したが、⑦から③まで移動する間か、あるいは③の地点かでウイスキーびんは発火した、初めはチヨロチヨロ燃えておりそのうち焔が立つたが、火はびんの先端付近で燃えていた、というのであり、なお前記宮坂検証調書および五・一七等々力鑑定書によると、その火が消えたのち③の地点に口金のとれたオーシヤンウイスキーの角びん(ガソリンと濃硫酸が一部入つているもの)が転がつており、これより離れたところからそのふたと思われる金属栓(硫酸が付着)、サツクの小塊、ボール箱(ガソリン臭あり)などが発見され、なお③および⑤の地点の土面は湿潤しており、その土砂からはガソリンおよび硫酸が検出されたというのである。

(ハ)  他方、前記の熊谷証言によると、馬場が逃げる際に、同じく警察署敷地内にもう一人の男がいて、馬場とともに逃げたというのであるが、馬場の自白によつて、それは被告人田中であつたことが判明したので、同人は同月三〇日午後五時四〇分逮捕され、間もなく犯行を自白し、さらに一一回にわたり司法警察員、検察官、裁判官(証人として)に対し詳細に自白している。そして、(証拠略)によると、被告人田中は馬場と離れて逃走中に三〇日午前四時ごろ警察署から約九〇メートル離れた山口正雄方に暫時隠れていて、自己の着用していた軍隊用国防色上衣一枚を同人方に預けたことのあることが認められる。

(ニ)  次に、被告人両名の供述調書によつて、当夜の両名の行動の概要につきその自白するところをみるのに、「四月二九日午後一〇時ごろ被告人馬場は被告人李方で同人からオーシヤンウイスキーびんの下部に硫酸を入れ、その上にガソリンを入れたもの、発火薬入りの二重ゴムサツク二個(うち一個は予備用)およびウイスキーびんを入れるためのボール箱を渡されたが、その際、李は、火炎びんの使用法として、発火薬入りのサツクをびんに挿入し、サツクの下部をびん口の外側に出すようにして口を蔽つたうえ口栓でしめておき、仕掛けるときは、びんを逆さにすればサツクが硫酸に溶け、硫酸と発火薬が化合して発火し、ガソリンに燃えうつると教えてくれた。馬場は右のびんなどを午後一一ごろ勤務先たる芝浦ミシン株式会社伊那工場内の寮の自室に持ちかえり、同宿の被告人田中にもウイスキーびん、サツクなどをみせて、李から教わつた使用法を説明し、両名は三〇日午前一時に起きて決行することにして寝についた。ところが両名とも寝すごして午前二時すぎ眼をさましたが、辰野警察署以外の襲撃個所でも、仕掛ける時間は早くても現実に爆破または発火する予定時間は午前三時だと聞いていたので、硫酸がサツクを早く溶かすことにより発火までの時間一時間半を五〇分に短縮できると考え、自室内で馬場が二重サツクの外側の一枚に穴をあけようと試みたところ、サツク二枚ともに穴をあけて失敗したので、予備用のサツクの外側の一枚に爪で米粒大の穴をあけ、失敗したサツクともども別々の紙に包んで上衣のポケツトに入れて午前二時二〇分ごろ部屋を出た。そして、工場の塀の内側で、馬場はウイスキーびんの中に発火薬の入つたサツクを挿入し、これをボール箱に入れて自ら持ち、田中と共に工場の裏側(北方)から外に出て迂回し警察署構内に入つたが、田中は警察署本館鑑識室の東南方にあるあけぼの倉庫の西北端付近で見張りをし、馬場は鑑識室に近づき、その鉄格子の鉄棒とガラス窓との間にびん入りボール箱を逆さにして置き、引き返そうとしたところ、見張り中の警察官から声をかけられ、両名とも逃げ出し、馬場は間もなく川原の堤防下で逮捕され、田中は付近の民家に暫時隠れていたが、その家の主人に自分の上衣を預けて午前五時ごろ寮に戻つた。」というのである。そして、以上の自白のうち、被告人馬場が自室で二重サツクの外側の一枚に穴をあけた点については、田中の供述は、右の状況を見てはいないけれども、馬場は自室で二重サツクを一枚にへらしたものであると言つているところに差異がみられるものの、その他については、両供述は一致しているといつてよい。

そこで、以上の諸点を合わせて考えてみると、被告人馬場、同田中の両名が放火の目的で辰野警察署鑑識室東側の窓のところに時限式火炎びんを仕掛けたが、発見されて放火の目的を遂げなかつた事実はいかにも疑いがないもののごとくである。しかしながら、のちに述べるように東箕輪村駐在所事件、非持駐在所事件および伊那税務署事件における関係被告人らの自白の真実性に疑問があることにかんがみれば、本件においても被告人馬場、同田中の捜査段階における自白の真実性については慎重な検討を必要とすると思われるし、またそれ以外の証拠特に前述の発火の状況、現場で発見された証拠物等についても、弁護人の所論にかんがみ十分検討をしてみなければならない。

三  実行行為に関する馬場自白と証拠物との矛盾について

(一)  ウイスキーびん内の濃硫酸の量の問題

被告人馬場の自白によれば、同被告人は前記のように四月二九日午後一〇時ごろ被告人李から発火薬と共にオーシヤンウイスキー角びんを受けとつたというのであるが、そのびんの下方に入つていたという赤黒かかつた濃硫酸の量については、五・一および五・九中村調書によると、いずれもその高さが「約三粍位」「三粍位」と記載されており、同被告人の五・四および五・一二相沢調書にも「角びんの中には底の方に三ミリ米位の厚さに濃硫酸があり」、「三ミリ位」だつたというのである。もつとも、この点については、司法警察員中村泰治作成の調書二通が、いずれも一旦「糎」と記載したうえ、これを「粍」と訂正していることが多少問題であるけれども、少くとも相沢検事が前記のように各供述調書の中で三ミリメートル位と明確に記載していること、原審第二回公判において陳述された検察官冒頭陳述書中でも「李より火炎びんを受けとつたが、……びんの下部に約三粍の厚さで濃硫酸が入つており」と記載されていることに徴すると、やはり三ミリメートルという供述であつたことに誤りはないというべきであり、また被告人馬場が長さの単位をまちがえるということは考えにくいところであり、さらにその供述の中で一貫して三ミリの厚さであつたとの説明がくり返されていることからみると、硫酸分量についての被告人馬場の印象はかなり鮮明であつたようにみえ、あやふやなものとは思えないのである。

ところで、馬場自白によれば、右のウイスキーびんは、前掲のように午前二時四五分ごろ辰野警察署本館の鑑識室東側の鉄格子の間に置いたというまさにそのものでなければならないわけであるが、同日午後〇時一〇分から午後三時までの間に実施された宮坂警部補の検証の結果によると、前記③の地点にあつた「瓶中には底部より約〇・六五糎の高さに闇赤色を呈した液体があり、更にその上部に約一・一糎の高さに淡赤色を呈した液体があつて、該液体は強度のガソリン臭とそれに若干の硫酸が認められる。」と記載されており、これを五・一七等々力鑑定書中の、「(液体)をビーカーに移すに底部に粘稠の紫赤色液体と上部に透明液体との二層をなす。底部の液体は一三ccあり。この比重を測定するに一・七六を示した。この一部を試験管に取り……(硫酸の存在)。」との記載とを対照すると、右のウイスキーびんの下部にあつた液体は硫酸であつて、その量は検証時高さ六・五ミリメートルに達するものであつたことが認められる(等々力鑑定人が鑑定した際一三立方センチメートルあつたという硫酸がウイスキーびんに入れた場合どれぐらいの高さになるかは鑑定書自体では明らかでないが、同じくオーシヤンウイスキー角びんに硫酸を入れて実験した三四・五・三〇山本鑑定を参酌すると、宮坂検証の際よりはその高さが減つているように推認される。しかし、等々力鑑定は五月九日から一六日までの間に行なわれたもので、宮坂検証から数日ないし十数日後のものであるから、その間になんらかの理由で量が減つたことも考えられるし、宮坂検証調書によれば、半ミリメートルの単位まで計つてあつて、きわめて慎重に計測したことが認められるから、少なくとも検証の際に硫酸がびんの底から〇・六五センチメートルの高さまであつたことは疑うわけにいかない。)。

そうしてみると、現場の③地点に転がつていたオーシヤンウイスキーびんの中にあつた硫酸の量は、その状態においてもすでに被告人馬場が被告人李から受け取つた時の量より多いこととなつてまことに不可解であるのみならず、(証拠略)、口栓、サツク小片、石塊に付着せる液状物、土砂に浸透せる液状物、黒色木綿ズボンにみられる多数の穴を総合すると、びんが地上に落とされた後はびん内の硫酸は土砂の間に浸みこんだり、石に付着し、また木下国穂着用のズボンに相当量とび散つて多くのしかも相当に大きな穴をあけさせたわけで、もとの量よりかなり多量の減少をみているとみなければならないから、馬場自白との差は一層大きくなる筋合いである。このことは、被告人馬場の仕掛けたという火炎びんと③地点にあつたオーシヤンウイスキーびんとが別物であるとみるか、それともこの硫酸の量に関する一貫した馬場自白が虚偽であるとみるか、そのいずれかでなければ説明のつかないことであるが、もし後者であるとすれば被告人馬場がなぜこの点について虚偽のことを述べたのか、もしほかの点について真実を述べているのならばこの点についてだけ虚偽のことを言う理由はないではないかと考えると、このことはまた同人の自白全体の信用性にも影響せずにはいないのである。

(二)  サツク小片の枚数の問題

(証拠略)によると、馬場は寝すごしたため時限発火式火炎びんを早く発火させるために寮の自室内で発火薬を入れた二重サツクの外側一枚に穴をあけようとしたが、あわてていたので二枚ともに穴をあけてしまつた、そこで室内にいた被告人田中に部屋から先に出てもらい、ひとり室内で李から予備用として渡された別の二重サツクの外側の一枚に爪で米粒大の穴をあけ、これを工場の塀の内側でウイスキーびんに取りつけたうえ、警察署に赴き鑑識室の窓においてきた、というのである。したがつて、この供述が真実であるとすれば、辰野警察署の本館署長室の窓下空気抜き穴から約六〇センチメートルはなれた個所で押収されたサツク小片も、サツクが二重になつているのでなければならない。

ところが、四・三〇宮坂検証調書によると、サツク小片は「一面に茶褐色を呈し、その内半分位は紫色をなし、一端は緊縛され、一端は薬品に溶断された如く認められ、その長さ約六糎、溶断面の直経約四・五糎位にして緊縛された部分に長さ約二・五糎の白糸三本より位のものが巻きつきその両端は薬品によつて溶断された如く認められるものである。」と記載されてあり、五・一七等々力鑑定書には、サツク小片を緊縛した白糸は紛失したため(等々力栄一郎の当審証言による。)、その緊縛がとれた結果、「ゴムサツクは丈約七糎、横約五糎ありて筒状をなし部分的に黄色又は淡紫色をなし、微にガソリン臭あり。」と記載されている。そして、右の検証調書の記載によると、サツク小片は白糸でその一部を緊縛されていたのであるから、もしサツクが二重であつたとするならば、その二重がとれて一枚となることは考えられないので、小片も二重でなければならないはずであるが、検証調書にはサツク小片が二重であつたとの記載もなく、宮坂敞憲の原審および当審の証言の中でも、特に二重であつたとは述べていない。しかし、事件は警察署の襲撃を図つたという重大事件であり、最も重要な証拠となる現場検証のことであるから、もし現場検証実施者がサツクの二重であることを認識したとすれば、当然そのことは検証調書に記載するはずである。しかるにその記載がないことは、少なくとも宮坂警部補がサツクの二重であることを認識しなかつたことを物語るものというべきであり、また同人が二重であつたのを一重と見誤つたのではないかという点については、検証調書添付の(G)図によればこれを広げた状態が明細に描かれているので、その際当然一重か二重かは識別しえたものと考えざるをえない。また、鑑定書についていえば、やはりその形状、寸法、色などを記載しているのであるから、もしそれが二重になつているのであれば当然そのことも記載されそうなものであるのに(現に証一九号のサツクについては二枚であることが明記されている。)、それが記載されていないのはやはり一重だつたからなのではあるまいか(しかも、被告人馬場は鑑定以前の五月一日にサツクが二重であることをすでに供述しているのである。)。そうしてみると、このサツクの枚数の点についても、前に述べたウイスキーびん中の硫酸の量の問題と全く同じ問題があるといわなければならない(なお、この点については、被告人田中がその五・九川又調書において「寝すぎたので、発火時間を早くするため馬場がサツクを一枚にした」と馬場自白と違うことを述べていることも参照すべきである。)。

(三)  サツク小片を緊縛していた白糸の問題

被告人馬場の五・一六中村調書、五・四相沢調書によると、同被告人は四月二九日夜被告人李から発火薬入りの二重サツクを二個受けとつたが、いずれもサツクの根元の方を切断し、糸で真中を結んであつたというのであり、なお馬場の五・一および五・九中村調書、五・四相沢調書によると、馬場は発火薬の入つたサツク先端部分の方をウイスキーびんの中に入れ、サツクの下端をびんの口の外に広げ、その上から口栓をはめこみ、これをボール箱に入れて鉄格子の間に逆さにして置いた、というのである。

ところで、(証拠略)によると、サツク小片に巻きついていた白色ガス糸は三本より位のもので長さは約二・五センチメートルで両端は薬品によつて溶断されたようであつたが、化学的には変化がなかつたことを認めることができる。そして、他方、五・一七等々力鑑定書によると、現場付近で発見された右の証一三号のサツクの小片には硫酸およびガソリンが、また証一二号の口栓には硫酸がそれぞれ付着していたことが認められるのであつて、このことからみると、ウイスキーびんが逆さに置かれたためびん内の硫酸およびガソリンがびん口にさしこまれたサツクのほうに流れこみ、比重の重い硫酸が最下端部となつた口栓にまで下降して付着したものとみることができそうである。しかし、もしそうであるならば、硫酸が口栓にまで下降する間に、特段の事情のない限りサツクを結んだ白色ガス糸(木綿糸)にも硫酸が付着するであろうことは当然予想されるところであるが、そのように濃硫酸が木綿糸に浸漬したとすれば、四六・六・三〇畑鑑定書に徴すると、木綿糸は濃度八五パーセントの硫酸に浸つても三〇分すると溶解透明化することが確認されているのであるからこの木綿糸も溶解していなければならないはずである。ことに宮坂が検証を行なつた四月三〇日午後〇時一〇分以降は、ウイスキーびんを逆さに置いたとされる時より九時間以上も経過しているわけであるから、木綿糸が原形を保つていたのは、いかにしても不自然であり不可解だといわなければならない。

右の点について検察官弁論は、「ルーデサツクをびん口に押し込むときに、ルーデサツクの入り具合が悪く、指先などを使つて押し込みルーデサツクが重なりあうようなことになると、びんをさかさにした時に硫酸が木綿糸をしばつてある部分までしみこんでくるかどうか疑わしいし、かりにその部分までしみ込んできても、例えば、しばりつけてある木綿糸がゴムとゴムの中に包み込まれるような形で押し込まれている場合には、木綿糸に硫酸が触れないこともありうるものと思料され、そのうえ、発火時に外部的な条件が作用するような場合はなおさらであると思考され、要するに条件次第で結果はいろいろに変ることが考えられるのである。ちなみに、本件の木綿糸は、(証拠略)によれば『緊縛された部分に長さ約二・五センチの白色三本より位のものが巻きつき、その両端は薬品によつて溶かされた如く認められる』旨記載されているところからすれば、木綿糸の一部が硫酸によつて融着したにとどまり、他の部分は硫酸に触れることのないような状態にあつたものが飛散するに至つたと認められ、かような可能性も十分有り得るものというべく、不自然でもない。」と主張している。しかしながら、これに対し弁護人の反論が「本件の火炎びん(本件の火炎びんの発火薬の分量の意)は検察官の主張によつても二・九グラムの量なのであるから、その部分をびん中に入れるにはなんの障害もなく、楽に入るのであり、ゴムは弾力性があるから、入れたのちも、ゴムで糸の部分が完全にびん内の液体から遮断される状況になることなど全くあり得ないのである。」と反駁しているのは十分考慮に値するところで、前掲のようにウイスキーびんが逆さに置かれて硫酸が口栓にまで下降していたとすれば、サツクが特異な状態でびんの中に入れられたという事実も証明されていない本件の場合においては、硫酸が口栓に達する途中に存在する木綿糸にも接触ないし浸漬する蓋然性は非常に高いとみるべきである。しかもこの糸は四・三〇宮坂検証当時にはサツク小片に巻きついていたのに、その後紛失されて一七日後の五・一七等々力鑑定当時にはサツク小片に付着していなかつたのであり、現在においては、糸にどうして化学的な変化が起らなかつたかを科学的に究明する手段を欠いているのである。

してみれば、この糸の残存の点からも前と同様の疑問が生ずるのであつて、はたして被告人馬場がその自白するような装置の火炎びんを逆さにして置いたものであるのか、そのことにも疑念が生じてくるといわざるをえない。

(四)  被告人馬場が所持していたサツクの穴の問題

前に述べたように、被告人馬場は横川川原堤防のところで逮捕された際その上衣ポケット内に発火薬らしいものの入つたサツク(証一九号)を所持していたというのであるが、馬場自白によれば、このサツクは、前述のように、同被告人が辰野警察署に向け出発する直前二重サツクの外側の一枚に穴をあけようとしたところあやまつて二枚とも穴をあけてしまつたものにほかならないわけである。ところで、押収にかかる証一九号を見ても現在では全く変形していて穴の有無などは見分けることができず、これを押収した際の捜索差押調書によつても押収品は単に「薬品拇指大量(ルーデサツク入り)」と記載されているのみでこれを知るに由ない。したがつて、前記等々力鑑定書によつてこれをみるほかないところ、そこには証一九号に相当する資料(七)の説明として「衛生サツク二枚を重ね上部は切断しあり全長十三糎ありて上部より七糎の所を青色絹糸二子糸にて結いあり先端の部分に白色板状結晶性粉末二・九瓦入れあり」云々と記載されている。もとよりこの鑑定の目的はサツクの内容物についての鑑定であつてサツクそのものの形状の鑑定ではないから、あるいはその詳細を記載しなかつたのではないかとの疑いもないことはないけれども、しかしサツクの枚数、長さ、縛つた糸の種類、縛つた場所などまで記載しているところからみると、もしこの二枚のサツクに穴があいていたとすれば当然そこにそのことも記載されたのではないかという疑いもまた消し去るわけにはいかないのであつて、その点からみると、証一九号のサツクには穴があいていなかつたと疑うべき節があるのである。そうしてみると、証一九号のサツク二枚に穴をあけたという被告人馬場の自白部分にもまたその真実性に疑いが残るといわなければならない。

(五)  証拠物を被告人馬場らに示していないこと

以上考察したように、各証拠物と被告人馬場の実行行為に関する自白との間には矛盾が発見されるわけであるが、当時の捜査官はその矛盾を解明する手段をとつていないばかりでなく、ことに最も重要な証拠物である証一一号のウイスキーびん、証一三号のサツク小片、証一九号のサツクなどを同被告人に示してその確認、説明を求めるという基本的な捜査の方法すら採つていないのである。そして、事件後長年月を経た現在においては、関係者の記憶も薄れ、証拠物もその形状、性質等に相当の変化を来たしているので、いまとなつてその矛盾を解明することはほとんど不可能だと思われる。

四  いわゆる自然発火の状況について

前にも述べたように、目撃者の供述を総合すると、オーシヤンウイスキーのびんは、⑤の地点でボール箱から抜けて地上に落ち、木下巡査に蹴られて⑦の地点に移動し、さらに熊谷巡査の警棒ではねられて③の地点まで転がつたが、⑦から③までの間か、あるいは③の地点かで自然発火したというのである。

(1)  びん内発火かびん外発火かの問題

まず、この発火はびんの中で生じたものであろうか、それともびんの外で生じたものであろうか。当審における畑鑑定の結果によれば、ウイスキーびんの中で発火燃焼すればびんの内部がすすけて黒くなるはずであるのに、証一一号のびんにはその様子が見られないというのである。また、捜査の段階で鑑定をした等々力栄一郎も原審証人として、びんの状態からみるとびんの中で発火した痕跡はなく、ガソリンがびんの外に出てから燃えたと思うと述べているのであつて、このことと、宮坂検証調書および同添付の写真一二(③点のウイスキーびんの付近の土砂の状況を撮影したもの)、五・一七等々力鑑定書によると、びんの停止地点③を中心として五五×四〇センチメートルの範囲の土砂に硫酸およびガソリンが浸透し、びんの周辺の土砂に燃焼のあつた跡が窺われることおよび目撃者らの供述とを総合すると、燃焼はびんの外で行なわれたとみるほかなく、以下これを前提として考察を進めることとする。

(2)  現場の⑤の地点にガソリンおよび硫酸がこぼれていたこと

前に述べたように、ウイスキーびんが停止していた③点の周辺でびんから出たガソリンの発火燃焼があつたことは明らかであるが、このほかに(証拠略)によると、青木巡査が鑑識室の窓にあつたボール箱を手にもつたところ、中からウイスキーびんが落下したという⑤点の周辺にも四〇×三〇センチメートルのほぼ楕円形をした範囲の土砂にガソリンおよび硫酸が浸透していたことを認めることができる。そして、このように相当に広い範囲の土砂にガソリン、硫酸がしみこんでいたのは、ウイスキーびんの内容物が多量にこぼれたものとみるほかないのであるが、馬場自白によれば、このびんの口には発火薬入りのサツクを挿入し、サツクの下部(切口)をびんの口の外側に広げて出すようにして口を覆つた上から金属のふたをかぶせしつかりねじりこんで栓をしたというのであるから、このとおりであつたとすれば栓はもとより発火薬入りのサツクもびんの口から外れるのでなければこのように多量のガソリンや硫酸が流出するとは考えられない(もつとも、ウイスキーびん((証一一号))のびん口は半分欠けていることが証拠上、明らかであるが、これは青木巡査がびんを落下したとき、このような割れが生じたと推定されないでもない。しかし、それにしても、口栓や発火薬入りのサツクが元のまま装置されているかぎり、内容の液体が流出するはずがないことは同様である。)。

そうすると、発火薬を包んだサツクを失つたウイスキーびんが⑤から⑦に、次で③に飛ばされて停止したとしても、③の地点でびんが発火燃焼の機能をもつことはもはやありえないことになるが、このことは前記目撃者の証言によるウイスキーびん発火の状況と矛盾し、また③の地点の周辺にガソリン、硫酸があつて、燃焼した痕跡のある状況ともくい違うことになるわけで、要するに⑤点に硫酸、ガソリンがこぼれていることと③点に燃焼の痕跡のあることの関係は説明がつかないのである。

(3)  金属製の口栓について

前示検証調書によると、本館土台から東方一・六六メートル、あけぼの倉庫西北隅の柱から約三・〇二メートルの地点(④)に金属製の口栓が発見され、五・一七等々力鑑定書によると、この栓には硫酸が付着していたことを認めうるが、この口栓は前記⑤⑦③をもつて囲つた範囲の外の南方にあることが明らかである。しかし、この口栓が、どうしてウイスキーびんからはずれたのか、またそれがボール箱から抜けて落ちた⑤点、また木下巡査から蹴られてびんが飛んだ⑦点、びんが熊谷巡査の警棒にはねられて最後に停止した③点のいずれよりも南方に離れた④点にあつたかは、やはり疑問だとしなければならない。

この点につき検察官弁論は、口栓は発火前、すなわち、びんが地上に落下したときか、もしくは木下国穂が蹴つたときに、びんの口からはずれた公算が大である、と主張する。たしかに、前にも述べたように、⑤点にかなりの量の硫酸およびガソリンの流出が認められるところからみれば、この地点で口栓がはずれたものとみるのが最も自然であろう。しかし、他方(証拠略)によると、馬場は前記のようにサツクの下部をびん口より少し外に出して、そのゴムの上から「ネジリ込んで」あるいは「口金でしつかり廻しこんで」栓をしたと述べているのであるから、口栓がこのような馬場自白のいうような状態にあつたとすれば、検察官弁論の想定のように、びんが地上に落ちたときとか、足で蹴つただけで(その際にびんの口が半分以上、欠けたとの事実を考慮するとしても)、びん口からはずれるということについては多分に疑問があるといわざるを得ない。また、⑤点から④点までは相当の距離があるのであつて、なぜ小さい口栓がこんなに遠くまで飛んだのかも、疑問といえば疑問である。

要するに、この口栓がはずれて④の地点にあつたことは、一面において馬場自白の真実性を疑わせるとともに、発火の過程について一つの疑問を投げかけるものということができる。

(4)  サツク小片について

四・三〇宮坂検証調書によると、警察署本館コンクリート土台から東方五センチメートル、署長室の窓下空気抜き穴から東方約六〇センチメートルの地点②にサツク小片が落ちていたことが認められるが、その小片は「一面に茶褐色を呈し、その内半分位は紫色をなし一端は緊縛され、一端は薬品に溶断された如く認められ、その長さ約六糎、溶断面の直径約四・五糎位にして、緊縛された部分に長さ約二・五糎の白糸三本より位のものが巻きつき、その両端は薬品によつて溶断された如く認められる」というのであるが、宮坂の原審(準備)証言によればこの小片には燃焼の痕跡はなかつたというのであり、この検証から一七日後に作成された五・一七等々力鑑定書には、その小片は「丈約七糎、横約五糎ありて筒状をなし部分的に黄色又は淡紫色をなし、微にガソリン臭あり。」と記載されており、かつこの小片からは硫酸の存在が認められたというのである。次に、宮坂検証調書と前記等々力鑑定書とを対比すると、宮坂はウイスキーびんが停止していた③点の周辺より五五×四〇センチメートルの範囲の土砂を採取して鑑定に付したことが認められるが、等々力鑑定書によると、右の土砂の中に焼残りのゴム小塊があつて、これより硫酸および塩素が検出されたというのである(もつともこのゴム小塊は、等々力の原審証言当時にはもはや押収の土砂中に存在していなかつた。)。

ところで、このように、ウイスキーびんが停止しておりかつガソリンの燃焼があつたと思われる③の地点から焼残りのゴム小塊が発見され、他方サツクの一部(証一三号)が③より三メートル余りも離れた②の地点に燃焼の跡もなく落ちていた事実をどう理解すべきものであろうか。すでに(2)で考察したように、⑤の地点の土砂にガソリンおよび硫酸がこぼれて浸透していた事実は、びんの口を覆つていたゴムサツクがこの地点でびんからはずれたことを強く推測させるものであるから、その地点で木下巡査がびんを蹴つた際サツクが②まで飛んだということは考えられるところで、そうみればサツクに燃焼痕のないことは説明がつくことになろう。しかし、そうであるとすると、発火薬の入つたサツクのとれてしまつたウイスキーびんが⑤から⑦へ、さらには③へ転がつたとしても、それが発火するということが考えられないことは前に述べたとおりである。ところが、他面、目撃者の証言や③の地点の状況からみると、③点ないしはその付近でガソリンが燃焼した事実は疑うことができず、その地点の土砂の中から焼残りのゴム小塊が前記のように発見されたこともこれを裏付けるものということができる。そうすると、サツクのうち証一三号の部分は発火前に⑤の地点でびんからはずれて②まで飛び、残りの部分がびんとともに③地点まで行つてそこで発火作用を営んだと考えるほかないが、はたしてそのようにサツクが発火もしないうちに二つに分断し、しかもその先端の部分だけがびんとともに③地点まで移動するというようなことがありうるのかどうか、はなはだ疑問であつて、理解を絶するものがあるといわざるをえない。そこで、この点に関し、検察官弁論は、「発見された(証一三号のサツク小片)は、発火薬の入つていた部分とは反対側の部分であつて、しかも……この部分が硫酸やガソリンに触れ難い状態でウイスキーびんの口の中にさしこまれていてガソリンの付着も少量であつたため、その部分だけが、発火燃焼の際にガソリンによつてふやけ硫酸によつて侵された発火薬の入つていたサツクの先端の部分と切り離れて飛散したのではないかとも推測しうる」と述べているのであるが、この検察官の想定は、サツク全体が③の地点までびんの口についていたとみるもので、前記のように⑤地点の状況と矛盾するばかりでなく、いわゆるびん内発火を前提とするもののごとくであつて、その点は前に(1)で述べたようにびん外発火と認められることとも一致しないといわなければならない。

これを要するに、サツクの一部である証一三号と③の地点にあつたというサツク小塊との関係はいかにも不可解で、とうていその関係が解明されているとはいいがたい。

そこで、以上発火の状況について考察したところをまとめてみると、それがどのようにして発火燃焼の過程をたどつたものであるのか、また金属製の口栓やサツク小片がいつどのようにしてとれて検証時にあつたような場所に飛んだのかはまことに推定困難であつて、一件記録ならびに原審および当審において取り調べた証拠をもつてしては解明しがたいものがあるというほかはない。もしその物が被告人の自白しかつ原判決の認定したような構造をもつ火炎びんであつたとすれば、目撃者たちの証言するように落ちたり蹴られたり警棒で突かれたりした場合、その発火燃焼の過程ならびにその内容の液体およびそれに付属していたと思われる物の散乱状況などがいま少しく理解しやすい形で示されるはずではないかと思われる。そう考えると、前に三で述べたように証拠物の状態と馬場自白とが一致しないこととも相まつて、この発火した物が馬場自白のいうとおりの物とはその構造、機能を異にしていたのではないかという疑惑もおのずと浮んでくるのであつて、この疑いはどうしてもぬぐい去ることができないのである。しかも、さればといつて、この発火の過程、証拠物および現場の状態からしてその物が本来どのような構造、機能をもつていたかを的確に推認することもまた困難だといわざるをえない。

五  発火薬、濃硫酸などの入手に関する被告人馬場、相被告人福沢の供述と証拠物とのくいちがいについて。

(証拠略)によると、福沢は四月上旬相被告人神戸から襲撃の際の用意として天竜書房でダイナマイト八本、電管七本、導火線約二メートルを渡され、また倉田良平に依頼して三月下旬にびん入りの塩素酸カリを、四月上旬にはサイダーびんより若干大きいびんにつめた濃硫酸を入手し、なお四月二七日サツク一ダースを、翌二八日に李を介して同サツク一ダースをそれぞれ購入し、同月二六日ないし二八日ごろにはガソリン一升入りびんを購入したというのであり、(証拠略)によると、福沢は四月二八日止宿先で二重にしたサツクの先に、塩素酸カリ、砂糖を半分ずつ混ぜたものを入れて発火薬を作つたが、発火薬の中にはマツチ棒の薬品部分を折つて入れたものも作つた、その夕方自宅に李がきたので、同人にダイナマイト五本、発火薬四ないし五個、雷管五本、導火線一メートル、濃硫酸約一合を入れたガラスびん一個、ガソリン三合位を渡した、というのである。

他方、(証拠略)によると、被告人馬場は四月二九日午後九時半ごろオーシヤンウイスキーの空びんを持つて李方に行き、そこから銭湯に行つて戻つてくると、午後一〇時すぎ李が火炎びんができたといつて、右のびんに濃硫酸、ガソリンを入れたものと発火薬入りのサツク二個を渡し、サツクの説明として、発火薬の中にはマツチ棒の頭と空気が少し入つていると言つた、そこで被告人馬場はウイスキーびんをボール箱の中に入れてて、これを風呂敷に包んで寮に帰り、三〇日の夜半ボール箱に入つたウイスキーびんとサツク二個を携えて辰野警察署に赴いたが、サツク二個のうち一個はその外側の一枚に穴をあけようとして二枚ともに穴をあけて失敗したので、これを上衣のポケツトに入れ、他の一個をもつてウイスキーびんの口に取りつけた、というのである。

ところで、検察官の主張によると、被告人李は四月二八日福沢から発火薬入りのサツク四ないし五個、濃硫酸一合などを渡されたが、発火薬のうち二個を馬場に渡し、一個は豚小屋の中にあつたダイナマイトにとりつけられた導火線の先端に付着せしめ、また硫酸は辰野警察署関係の火炎びん用としてウイスキーびんの中に入れたほか、豚小屋で発見されたインクびん、東箕輪村駐在所玄関前におかれていたインクびんにそれぞれ分けたというのである。したがつて、検察官が主張する爆発物などの分配状況が真実であるとすれば、馬場が上衣のポケツトに入れていたサツク中の発火薬と豚小屋内のサツクの中の発火薬とは、福沢が同一の機会につくつたものであるから、同一の成分をもつているはずであるし、またウイスキーびん内の濃硫酸濃度と豚小屋内で発見されたインクびん内の濃硫酸の濃度とは同一であるべきであるから、これらの点について検討を加えることとする。

(一)  馬場の所持していたサツク(証一九号)と豚小屋内にあつたサツク(証三号は発火実験後の残渣)との内容の比較

五・二三等々力鑑定書(豚小屋関係)、六・二岩井・久保田鑑定書と五・一七等々力鑑定書とを比較すると、馬場が所持していたサツクも豚小屋で発見されたサツクも、ともにこれを結んだ糸は青色絹糸であり、同色同質のものであるけれども、両サツクの中の粉末成分については、証三号(豚小屋関係)の白色粉末は透明に溶解したが、証一九号(馬場が所持していたもの)の白色粉末は難溶性であつたというのであり、この発火薬の成分にどうして差異があるかについて、等々力は当審の証言の際、弁護人から質問されて、これに答えることができなかつた。

さらに、白色粉末の重量を調べると、証三号の白色粉末は五・二三等々力鑑定書によると約三グラム、また前記岩井・久保田鑑定書によれば一一・三グラムとあつて、同一物でありながら重量の測定が著しく異なつているが、証一九号の白色粉末の重量は五・一七等々力鑑定書によれば二・九グラムだというのである。したがつて、二個の等々力鑑定をいずれも措信すれば、証三号は約三グラム、証一九号は二・九グラムであつて、ほぼ同量といえるけれども、岩井・久保田鑑定書は等々力鑑定からほぼ一〇日後に作成されたもので、久保田光雄の原審証言によると、発火薬は一一・三グラムであつたが、これを五グラムに減じて発火実験をしたと述べていることからみると、その重量が一一・三グラムであつたという岩井・久保田鑑定書の記載は十分信用するに値し、したがつて五・二三等々力鑑定の重量が約三グラムであつたとの記載は措信しえないといわなければならない。このことは、ひいて証一九号の重量に関する五・一七等々力鑑定の信用性にもひびいてこないわけではないが、さればとて特にこれを措信しないとするだけの理由も存在せず、そうすれば、証三号の重量は約一一・三グラムであるのに対して証一九号のそれは二・九グラムである疑いはかなり強く、両者の重量の差異は特に顕著となるわけである。

以上の各事実に徴すると、証三号の発火薬と証一九号の発火薬とは同種のものであつたというより、異種のものであつたとの疑いが濃厚であり、このことは、ひいて福沢が発火薬など爆破材料を李に渡し、李がその一部を馬場に手渡したとの福沢、馬場の供述の信用性に重大な疑惑を抱かせるものというべきである。

(二)  辰野警察署で発見されたウイスキーびん(証一一号)内の硫酸と豚小屋内で発見されたインクびん(証八号)内の硫酸との濃度の比較

五・一七等々力鑑定書によると、辰野警察署で発見されたウイスキーびん内の濃硫酸の比重は一・七六(濃度八二・四四パーセント)であつて、実験は五月九日から同月一六日までであり、また五・二三等々力鑑定書(豚小屋関係)によると、前記豚小屋で発見されたインクびん内の濃硫酸の比重も右と同じく比重一・七六であつて、実験は五月九日から同月二二日までであつたことが認められる。

ところが、前者の濃硫酸は、同一のびん内でガソリンと混合されていることが証拠物自体に徴して観取されるのであるが、右のように同一のびん内にガソリンと硫酸が同時に入れられて混合されたのは、被告人馬場の五・一および五・九中村調書によると、四月二九日午後一〇時ごろであつたというのであるし、それによると、この混合状態は等々力鑑定開始日までに一〇日間、鑑定書作成日の五月一七日までには一八日間もつづいていたことになる。そうすると、この前者のびん内の硫酸はガソリンと混合して一〇日ないし一八日間も経過したのであるから、三四・五・三〇山本鑑定書に徴すれば、ガソリン中の可溶性成分が硫酸中に溶けこみ硫酸濃度を相当大幅に低下せしめたはずだといわなければならない。いま、四四・九・一〇石倉鑑定書および四四・一二・一五秋谷鑑定書によつて硫酸を二個の異別のびんに分けて操作した後の濃度測定の結果をみると、その実験は、(イ)一定の濃度の硫酸を広口ガラス小びんに入れてキルク栓を施し、びんの硫酸が栓の内面に接触するように一日一回ずつ二日間(秋谷鑑定)、また二日間を通して五回(石倉鑑定)びんを振り動かし、のち満二日後の濃度を測定し、(ロ)右の硫酸をオーシヤンウイスキー角びんに入れ、その上にガソリンをびんの肩まで入れてキルク栓を施し、一日一回づつ二日間(秋谷鑑定)、また二日間を通して五回(石倉鑑定)びんを振り動かし、のち満二日後の濃度を測定した結果、石倉鑑定によると硫酸の濃度九六が(イ)で九五・七五(ロ)で八八・七〇に減じ、他にも実験をくりかえした後の結論として、同鑑定人は「保存した濃硫酸をオーシヤンウイスキー角びんに分取、ガソリンを入れて放置後、二日後の濃硫酸の濃度には、全体に六―七%の低下がみられた。」と説明している。次に秋谷鑑定によると、硫酸の濃度九五・五が(イ)で九五・一(ロ)で九一・〇に減じたが、(ロ)で特に濃度が大幅に減じた理由として、栓をしめて、びんの気密性を保つたとしても、ガソリン自身にあらかじめ含まれていた僅微の水分が硫酸に吸収されたり、ガソリン本来の特殊の成分およびその添加剤等が硫酸に溶解されて濃度が減じたと説明がなされている。

以上の鑑定結果にかんがみると、警察署関係のウイスキーびん内の硫酸はガソリンと混合されたのに、これがガソリンの混入のない豚小屋内の硫酸濃度と同一であるのは、福沢、馬場の前記供述からみられるようにそれらが福沢が購入した市販の濃硫酸(原審鑑定人藍原有敬の供述によればその濃度は約九六パーセントである。)の各一部であるとするならば、まことに奇異なことだといわざるをえない。この点に関し、原判決は、右二個の鑑定のうち「そのいずれかあるいはいずれもが誤りであるかにわかに断定できない」としながら、種々の理由を挙げて「差し当り前者は………措信することはできない。」と述べている。しかし、その論拠は、要するにこの二個の硫酸がいずれも相被告人福沢の入手した同一の硫酸の一部であるとの同被告人の自白が真実であることを前提としたものであるから、その真実性いかんが問われている本件においては、それを理由として軽軽に等々力鑑定の信憑力を否定することはできない筋合いであり、等々力の原審および当審証言に徴してみても、同人がした二回の鑑定の正確性を特に疑う節も見出せないのである。(なお、豚小屋で発見された硫酸入りの小びんが鑑定時まで〔(証拠略)によると、木栓であつたことが明らかである。〕有栓であつたのに対し、警察署関係のウイスキーびんは事件当時一定の時間無栓の状態にあつたことが認められるし、またこの分の実験終了日は豚小屋関係の実験終了日より六日間早いという違いはある。しかし、このことを考慮しても、前掲各鑑定に徴すれば、ガソリンと混合した硫酸と純粋の硫酸とが相当期間たつたのちになお全く同一の濃度を保つていることは理解しがたいことに変りはない。)。してみると、このことは、この二個の硫酸の出所が違うことを窺わせるもので、前に発火薬について述べたところと同様、被告人福沢・同馬場の自白の真実性に重大な疑問を抱かせるものである(なお付言すれば、福沢自白によると、同被告人は倉田良平を介して硫酸を購入したというのであるが、捜査当局は右倉田を取り調べてさような事実の有無、販売先などを確める方法をとつていない。したがつて、その点でも右の入手の事実に関する福沢自白の真実性は証明されていないのである。)。

六  四月二八日の実地試験に関する被告人馬場、同田中の供述と相被告人福沢、同村田、同伊藤らの供述とのくいちがいについて

被告人馬場の五・一中村調書によると、「四月二二日李方会議の際、神戸が『火炎びんなどの実地試験をするから四月二八日午後五時半までに天竜書房に来てくれ』と言つた」との供述があるほか、同被告人は五・一相沢調書、五・二洞口調書、五・四相沢調書および五・五中村調書でも同旨の供述をしていたところ、五・九中村調書では、連絡場所につき「神戸は『四月二八日午後七時ごろまでに松島(中箕輪町)に来てもらいたい、場所は後で連絡する。』と申したのであつて、天竜書房に来てくれといつたのではなかつた。なお四月二七日の小沢より子方会議(小沢方は神戸がもと止宿していたところである)の席で馬場は宮原から『明二八日夜に集まつて山に行き実験をする。その集合場所を連絡したいので、明日の昼休みに天竜書房に来てくれ。』と指示され、二八日の昼休みに天竜書房に行くと、神戸から『夕方五時半ごろまでにここに来てくれ。六時のバスで行つて、帰りに品物を渡すから。』と言われたが、組合の臨時大会が終つた後の午後七時天竜書房に行つた。しかし、神戸、宮原はいなかつたので、銭湯に行き、また午後九時ごろ戻つたが、やはり神戸らは帰つていなかつたので、書房にいた伊藤秀男に対し『夜中の一時半か二時に伊那工場の裏塀に、火炎びんの使用方法を書いた紙切れを吊してくれ』と言つた。そして午前二時裏塀に行くと、紙切れが吊されてあり、それには『会つて話したいから明朝仕事に入る前に来てくれ』と書いてあつたので、二九日午前六時一五分すぎ天竜書房に出かけると、李がいて『硫酸とガソリンとびんをそろえよ。』と申して火炎びんの使用方法を教えてくれた。」と述ているのであつて、なお五・一一および五・一二相沢調書、五・一三草深調書でも被告人馬場は同旨の供述をしている。

他方、被告人田中も、五・九川又調書によると、「四月二二日の李方会議の席上で、神戸から火炎びんやダイナマイトに関する使用方法などは四月二八日某所にくれば教えると言われた。また四月二八日午後五時半から山の中で火炎びんの実験をするから来てくれとのことであつたが、私は忙しいので馬場が行くことになつた。二九日午前六時馬場から起こされたが、馬場の話では火炎びんはなかつたが、紙片がぶら下つていたということであつて、その紙片をみると、『話したいことがあるから、来てくれ。』『材料としてガソリン三合位、濃硫酸』と書いてあつた。馬場が意味が分らなくて、すぐ天竜書房に行くと、ガソリンだけを用意せよとのことであつた。」と述べており、五・一〇、五・一一および五・一二熊井調書、五・一四草深調書でも同旨の供述をしている。

さらに、原審相被告人伊藤秀男(当審に係属中の四一・四・三死亡)の五・二八中村調書にも、前記馬場の供述と合致する供述記載、すなわち「四月二八日小松は自分に『今夜中箕輪で火炎びんの試験をやるから遅くなる。』と言つたが、午後三時ごろ李が来て、午後四時ごろ李と小松はどこかに出て行つた。午後六時半か七時ごろ馬場が書房に来て『大会があつて遅れた。』と言つていたが、午後九時ごろまた馬場が来て『品物と使用方法と窓ガラスのこわれる範囲を紙に書いて、これを伊那工場の塀に吊しておいてくれ。』と言つて帰つた。午後一〇時ごろ李、小松が戻つてきたので馬場への連絡を伝えると、二人で紙になにか書いて渡したので、午後一一時過ぎごろ塀にぶら下げて戻ると、小松がいて『今夜はどうだつた。』と試験の結果を聞くと『成功だつた。』と言つたきりであとは黙つてしまつた。」という供述記載があり、伊藤は五・一五川又調書、五・一九中島調書、五・一五小林調書、五・二九および五・三一熊井調書、五・三〇草深調書でも、同旨の供述をしているのである。

以上の各供述調書によると、被告人馬場、同田中および伊藤は、いずれも、被告人神戸、同李、同小松らが中箕輪町内で火炎びんの効力実験をするため四月二八日午後四時ごろ出かけたという趣旨のことを具体的に述べており、伊藤はそのほか実験が現実に実施されたことを推定させる事実まで述べているのであつて、その供述間に矛盾撞着するところもないから、その供述には、一見、信用性があるようにみえ、これによれば、四月二八日に中箕輪町で火炎びんの実地試験が真実行なわれたもののごとくである。それゆえ、これらの供述に窺われるように二八日に実験がされたかどうかを他の証拠によつて検討してみるのに、

(イ)  相被告人福沢は、(証拠略)において、自己の犯行のみならず犯行に至るまでの経緯、すなわち四月二二日の李方会合には相被告人山川をして自己に代つて出席させ、後に山川から会議の模様をきいたこと、同月二六日の金甲竜方会合に出席したことなどについて詳細、具体的に述べており、そのほかに被告人らのうちでは福沢だけが終戦前、満洲で軍務に服し、陣地構築などで爆薬を使用した経験をもち、時限式発火装置の知識もあつたことから、唯一の技術指導者のような地位に立ち、そのためサツク、濃硫酸、塩素酸カリなどを入手し、発火薬をつくり、実行者らにダイナマイト、発火薬などを分配したこと、四月初め止宿先の原二三夫方および四月二七日夜天竜川原でそれぞれ硫酸のサツクに対する浸透時間を実験したことなどをも供述しているのにかかわらず、二六日金甲竜方会合で二八日実験の件が話されたかどうか、また二八日夜に首謀者らが集つて実験をしたかどうかについては全く供述していないのである。また被告人村田も六・一七中村調書、六・二〇真島調書において村田が出席した二六日金甲竜方会合の内容を詳細に述べているのに、二八日実験のことについてなんら触れていない。このように福沢、村田が共に二八日実験についてなんら供述していないのは、金甲竜方会合で実験のことが全く話されなかつたことを窺わせるのに十分である。

(ロ)  のみならず実験のあつたとされる二八日夜には、首謀者とされている被告人李、同小松は、上伊那郡中箕輪町木下の南洙学方で、相被告人金子と共に会合したことになつている。すなわち、(証拠略)によると、二八日午後九時ごろから午後九時半ごろまでの間、南方に李、小松、金子の三名が集まり、金子が東箕輪村駐在所爆破の実行を担任することに決定したというのである。そして、その夜一〇時ごろ李、小松が辰野町の天竜書房に戻つたとの前記の伊藤供述を信用すれば、李、小松は南方の会合を終えて直ちに辰野町に戻つたとみざるをえない。

なお、被告人李の二八日における南方会合出席前の行動については、相被告人福沢の六・一一および六・一六西沢篤志調書、六・二三草深調書によると、四月二八日夕方李が南洙学方に赴く途中に福沢の止宿先たる原二三夫方に立ち寄つたときに、福沢は李の眼前で二重サツクの中に塩素酸カリおよび砂糖を入れた発火薬四、五個を作り、これとともにダイナマイト、ガソリン、濃硫酸などを渡して爆破方法を説明した際、李が福沢に今晩の南方の会議に出席するよう勧めたところ、福沢は李に対し爆破に関する技術的なことは君が知つているからといつて欠席した、というのである。

したがつて、以上の各供述からすれば、被告人李は伊那町の福沢の止宿先でダイナマイトなどを受けとり、次いで中箕輪町の南洙学方で会合を開き、それから天竜書房に戻つたことになるわけで、特にそのほかに他の者とともに集まつていずれかの場所で実験をするだけの時間的余裕があつたものとは考えがたく、また、もし実験をするならば土地の人間でありかつ最も専門家である福沢を参加させるのが当然であるのに、福沢が李にダイナマイト、発火薬、ガソリン、濃硫酸などを渡して使用方法を教えたこと、福沢が李も爆破方法を理解したからにはあえて自分が南洙学方会合に出席する必要はないと述べたことに徴すると、二八日の夜中箕輪町またはその付近で李、小松らが火炎びんなどの実験をした事実はむしろなかつたことを推定させるに十分である。

そうしてみると、この二八日実験についての被告人馬場、同田中の供述はまさしく相被告人福沢、同村田らの供述から認められる事実と矛盾する疑いが濃厚であつて、その双方が真実であるとみることは困難であり、このことは一面において福沢、村田らの供述の信用性にも動揺を与える半面、被告人馬場、同田中の供述の真実性に疑惑を生ぜしめるものであることはいうまでもなく、この供述が実行行為をも含む自白の一環としてなされているだけに、それはまたひいて実行行為に関する同被告人らの自白部分の信用性にも影響を与えずにはいないのである。

七  結論

そこで、以上述べた諸点を総合して考えると、被告人馬場、同田中の捜査段階における自白のなかには、被告人馬場が警察署鑑識室に近づいてなにものかを窓のところに置いたが、警官に発見されて、付近にいた被告人田中とともに逃げたこと、田中が逃走の途中に警察署の近傍の民家に身をひそめたことなど、真実に符合した部分もあり、かつ、被告人馬場の立ち去つたあとでウイスキーびんの中に入つていたと思われるガソリンが地上で炎上したという事実もあるので、右両名の原判示放火未遂の事実の嫌疑は一面においてかなり濃厚であることは否定することができない。しかしながら、他面、すでにみてきたように、被告人らの自白特に被告人馬場の自白には重要な点において客観的事実あるいは他の被告人の自白と符合しない部分がいくつかあつて、これを無条件に信用することには躊躇されるものがあり、ことにその実行に使用しまたは使用しようとしたとされる物の状態およびその置き方についての自白と証拠物あるいは鑑定結果との矛盾は看過することのできないものであると考える。そして、他方、検証の結果および証拠物の状態から右の発火の状況をみるのに、その物が発火燃焼しその各部分が散乱した原因・過程にまことに不可解なものがあつて、その状況はすべて馬場自白と符合するものとはいえないと同時にこれによつて逆にその物の本来の姿を正確に再現することは困難だといわざるをえない。そうだとしてみると、被告人馬場の実行行為に対する嫌疑のあることは、前記のとおりであるにしても、その仕掛けたという時限発火式火炎びんなるものの構造・機能を的確に判定するにはなお合理的な疑問が残ることを認めざるをえないのであつて、この疑問が存するかぎり、同被告人を放火未遂の犯人として有罪とするにはなお証明が十分であるとはいいがたいのである。そして、右のように被告人馬場の実行行為が証明不十分とされる以上は、その共犯として起訴された被告人田中、同神戸、同李、同小松、同山川についても犯罪の証明がないことは当然であるから、冒頭に掲げた原判決のこの事件に関する認定事実は結局全部その証明がないことに帰する。それゆえ、これを有罪とした原判決のこの部分は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があることとなり、論旨はこの点においても理由があるといわなければならない。

第四東箕輪村駐在所事件

一  原判決の認定した事実

東箕輪村駐在所事件として原判決の認定した事実の要旨は、

「被告人神戸、同李、同福沢、同村田、同宮原は昭和二七年四月二六日に長野県上伊那郡伊那町大字伊那部四、八四〇番地の金甲竜方に会合して東箕輪村駐在所をダイナマイトまたは火炎びんで襲撃することを共謀し、これに基づき同月二八日に被告人李および同小松が同郡中箕輪町木下所在の南洙学方において被告人金子に対し右の襲撃を担当することを求めたところ被告人金子もこれを承諾して翌二九日に被告人小松から導火線の先端に駅前派出所事件におけると同一構造の発火薬を結着し導火線の他端を雷管に付着させこれをダイナマイトに装置した時限発火式ダイナマイト一本と濃硫酸入りインクびんの交付を受けたうえ、同月三〇日午前三時三〇分過ぎごろ右の時限発火式ダイナマイトとインクびんを携えて同郡東箕輪村字南小河内三、一五六番地の一所在の東箕輪村駐在所におもむき、同駐在所表玄関前において右時限発火式ダイナマイトの発火薬部分を右濃硫酸入りびんに差し込み、駅前派出所事件におけると同様の化学反応により右ダイナマイトを爆発させるように装置したうえこれを同所に置き、もつて治安を妨げる目的で爆発物を使用し、よつて同日午前五時過ぎごろこれを爆発させた。」

というのである。

二  はじめに

証拠によれば、原判決認定の日時に東箕輪村駐在所建物の玄関前でなにものかが爆発したことは認めざるをえないところであり、他方、被告人金子は昭和二七年六月一三日に右爆発の実行行為者であるとの容疑によつて逮捕されるや、同月一五日に至つて右の事実を大要自白し、以後司法警察員、検察官に対して詳細な自白をし、裁判官から証人として尋問された際にも同様の供述をしているのであつて、その供述の内容自体からみると、いかにも真実を述べたもののような感を抱かせることはどうしても否定できないのである。しかしながら、同被告人が右爆発事件実行の犯人であることについては、被告人福沢の検察官および裁判官に対するその点の供述は間接の伝聞であつて信憑力が高いとはいえず、結局は被告人金子の自白がほとんど唯一の証拠だといつてよいのであるから、その自白の真実性については十分慎重な検討を必要とするところ、弁護人の所論ににかんがみ、一件記録および証拠物を十分精査し、かつ当審における事実の取調の結果をあわせて考察してみるとき、いろいろの点特に現場の客観的情況との関係において解明することのできない疑問がいくつか発見されるのであつて、これによつてみれば、同被告人の一見真実らしい自白にもその真実性に合理的な疑いをさしはさまざるをえないものがあるといわざるをえない。これを詳説すると、以下のとおりである。

三  被告人金子の現場における行動ないしはその仕掛けたという爆発装置が張り込み中の警察官によつて発見されなかつたことについて

被告人金子が捜査官に対して自白し、裁判官の面前で証言したところ(以下「金子自白」という。)によると、同被告人は、かねて打ち合わせたとおり四月三〇日の午前一時を期して東箕輪村駐在所に時限発火式ダイナマイトを仕掛ける予定でいたところ、前夜訪ねてきた友人と酒を飲んだため寝過ごしてしまい、目をさました時には柱時計が午前三時ごろを指していたので(この時計は一〇分か二〇分進んでいたかもしれないという。なお、裁判官の尋問調書では、起きたのは午前二時半前だと述べている。)、あわてて時限発火式ダイナマイトと硫酸の入つたインクびんとを持つて前記駐在所へ歩いて行き、駐在所玄関前のコンクリートの上にふたをとつたインクびんを置き、時限発火式ダイナマイトに付けられた発火薬入りのサツクをインクびんの中の硫酸に入れたうえ、急いでもと来た道を自宅へ引返した、というのである。ところが、他方、右駐在所の側においては、同夜同駐在所がなに者かに襲撃されるかもしれないということで、二九日夜に辰野警察署から三石巡査部長と宮下巡査、伊那警察署から長坂巡査部長と山下、小松両巡査が現場に派遣され、同駐在所勤務の浜明巡査と合わせて六名が三名ずつの二班に分かれ一時間交替で駐在所の外で警戒に当たつていたが、三〇日の明け方になつてもう襲撃はあるまいと思い張り込み警戒をやめてその夜の休息所にあてられていた農業協同組合(以下「農協」という。)購買部の一室(もと宿直室)へ引きあげたところ、そのあとで午前五時過ぎころ前記の爆発が起こつたことが認められる。そして、その警戒に当たつた時間を検討してみると、当審証人山下平四郎は午後一一時ごろから午前三時ないしは三時ちよつと過ぎあるいは三時半ごろまでであつたのではないかと述べ、同小松一雄も午前三時過ぎまでだつたのではないかと述べているけれども、これに対し浜明の原審証言によれば、張り込みを開始したのは午後一二時ごろだというのであり、終了時刻については同証言は初め午前四時ごろと言つていたが、弁護人から「検証調書中の証人の供述部分によると午前四時半ごろと述べているがどうか」と聞かれ、「そのほうが正しいと思う」と前の供述を訂正している。そして、前記山下、小松のこの点についての証言がそれ自体断定的でなくかなりあいまいであるのに比べ、浜明の前記証言は、その証言をした時期が事件により近いことからみても、「夜が明けて明るくなつたのでもう必要がないだろうということで警戒をやめた」という供述に照らしても、またその時刻が四時半であることの記憶の根拠を弁護人に尋ねられて「引き揚げるについては、時計を持つていた者が時計を見て四時半だと言つたものだと思う」と具体的な説明をしているところからみても、張り込んでいた警察官たちが張り込みを解いて前記休息所に引き揚げたのは、浜証言のとおり三〇日の午前四時半ごろであつたと認定するのが相当である。しかるに、被告人金子の自白によると、同被告人が駐在所へ行くため自宅を出たのは午前三時かそれより少し前ということになり、六・一五および六・一七洞口調書によれば、駐在所まで行くのに約一五分を要したことになるから、これによれば同被告人が東箕輪村駐在所玄関前に時限発火式ダイナマイトを仕掛けた時刻はほぼ午前三時から午前三時一五分ごろまでの間であつたことになる。そうしてみると、これはまさに前記警察官の張り込み警戒時間中に行なわれたことになるわけで、しかも時限発火式ダイナマイトは玄関前に仕掛けられた状態のままその時刻から爆発時の午前五時過ぎまで置かれていたことになるのであるから、もしその自白のとおりであるとするならば、なぜ同被告人の駐在所玄関前における行動が張り込み警戒中の警察官に発見されなかつたのか、また、その後においても駐在所玄関前に仕掛けられた時限発火式ダイナマイトがなぜ発見されなかつたのかが当然問題とならざるをえない。

そこで、その際の情況をいま少しく詳しく検討してみると、張り込みに当たつていた六名の警察官は前記のように三名ずつの二班に分かれ一時間交替で警戒を担当していたのであるが、その警戒の方法は、三名のうち二名が駐在所の西隣りの農協肥料倉庫の軒下で見張りをし、一名が歩いていわゆる動哨をしていたことが認められる。そして、その見張つていた地点については、原審証人浜明は倉庫の東南の角のところ(道路からみて裏側)であつたと言い、当審証人山下平四郎は道路に面した北側のやや東寄りであつたと供述していて、一致しないが、山下証言が警戒中辰野方面から来る自転車を認めたと述べているところからみてもこの点に関するその証言にはかなり信用性が認められ、他方浜証言は、同人と右山下とは班を異にするところからその言う場所で警戒に当たつていたのかとも考えられるが、班によつて警戒地点を変えるというのもやや不自然であるし、同証人としてはもし道路に面したところにいたとすれば当然警戒を怠つた責任を問われることになるので、それをおそれてそのように述べたということも全く考えられないではない。また、いま一人の動哨については、(証拠略)は、動哨者は大体駐在所の周辺を回つていて玄関の見える方へも行つていたと言つており、駐在所の警戒である以上まさにそうあるべきであつたと思われる。ところで、現場すなわち駐在所玄関前の明るさについては、(証拠略)は、駐在所の赤い門燈はついていなかつたが道路の反対側の農協についている電燈の明かりで明るかつたというのであり、(証拠略)によると、被告人金子が駐在所玄関前で時限発火式ダイナマイトを仕掛けるのに約三分位かかつたと思うというのである。しかも、自白どおりとすれば同被告人は駐在所前の道路を東のほうから来てまたもとのほうへ引き返して行つたわけであり、(証拠略)によれば、右の道路は少なくとも一〇〇メートルは直線をなしていて見通せる状態にあつたことが認められる。そうであるとすれば、被告人金子のその行動がなぜ警戒中の警察官に発見されなかつたのであろうか。少なくとも駐在所玄関前へ往復した同被告人の姿ぐらいは目撃されてよさそうに思われるのである。この点につき、検察官は、その最終弁論において、表側の警戒がおろそかになつたすきに仕掛けられたか、班が交替するすきに仕掛けられたと考える余地があるという。たしかに、自白が真実であることを前提とすればそう考えるほかないであろう。しかし、駐在所が襲撃されるかもしれないという予想のもとに現場に張り込んでいた警察官らとして、たとえ時間はすでに午前三時前後になつていたにせよ、はたしてそのような相当時間にわたる被告人金子の動静を発見しないようなルーズな警戒ないしは交替のしかたをしたものであろうか。証拠のうえでは必ずしもそのような事情は明確にされていないのである(当時辰野警察署長であつた松島幸雄の原審証言によると、当夜警戒に当たつた警察官に対し事後に譴責が行なわれたという。しかし警察当局者としてみれば、これらの警察官が警戒のため現地に派遣されていながら爆発事件が発生し、しかも犯人を捕えることができなかつたのであるから、それだけでも譴責の理由はあるのであり、あるいは警戒を終了して休息所へ引き上げるのが早すぎたという点にその理由があつたのかもしれず、はたして具体的にいかなる点に過怠があつたのかまではこれだけでは明らかでない。)。

のみならず、被告人金子が仕掛けたという午前三時ないし三時過ぎから警戒終了時の午前四時半ごろまでの間駐在所玄関前に置かれていたという時限発火式ダイナマイトがなぜ警察官に気づかれなかつたのであろうか。その間動哨も行なわれていたというのであるし、ことにその間班の交替も行なわれたはずで、その交替は駐在所玄関から真正面北に通ずる小路を通つて行なわれたものと考えられるから、玄関前が前記のようにある程度明るかつた以上、交替のため駐在所方面へ向かう三名の警察官の目には当然入るはずである。それにもかかわらずそれが発見されなかつたということも、まことに不可解だというほかはない(現に、前記宮坂検証調書には、「爆発原因」として、「被疑者は四月三〇日午前四時三十分頃張込中の警察官が引上げたのを見計らひ……所謂時限爆弾式なものを玄関に仕掛け……」とその所見が記載されているのであつて、このことは、事件発生後国警長野県本部から派遣されて来た宮坂敞憲警部補もまた現場の状況および浜明の説明を総合して警戒終了前にはかかる仕掛け行為が行なわれるはずがないと判断したことを示すものであり、前記の疑問を裏づけるものということができる。)。

以上考察したところからすれば、被告人金子の仕掛け行為およびその仕掛けた時限発火式ダイナマイトが張り込み警戒中の警察官によつて発見されなかつたことは、はなはだ奇異の感を抱かせるのであつて、その理由はついに十分に解明されたとはいいがたい。このことは、被告人金子がはたしてその自白したような時刻に時限発火式ダイナマイトを仕掛けたものであるかどうか、さらにはそもそも同被告人が右のようなダイナマイトを仕掛けたものであるかどうかにつき重大な疑問を投げかけるものであつて、この疑問はどうしてもぬぐい去ることができないのである。そして、最も重要な実行の部分につきその自白の真実性に疑いがあることは、ひいてまたその自白全体の信用性をも動揺させることになるといわなければならない。

四  爆発後の状況について

(一)  導火線が原形をとどめていなかつた事実

金子自白によれば、同被告人が仕掛けた時限発火式ダイナマイトは、一〇センチメートル位の長さのダイナマイトの先に雷管がついてそれに一二センチメートル位の導火線がついており、その先端に薬の入つているゴムの袋がついていたというのであり、実行の際はインクびん内の硫酸(同自白によれば稀硫酸だという。)の中へそのゴムが見えなくなる程度に入れたというのである。ところが、爆発後の状況をみるのに、(証拠略)によると、現場およびその付近からは導火線破片と認められる白色木綿糸一本が付着する小紙片四個、黒色紙糸六本、黒色糸屑一本、糸屑付着の小紙片四個ならびに長さ約五センチメートル十数本よりの紙糸八本および麻糸三本が発見されただけで、導火線の原形をとどめたものは発見採取されなかつたことが明らかである。ところが、国警本部科学捜査研究所勤務の警察技官である久保田光雄の証言によると、同人が岩井技官とともに雷管に導火線(その長さは約二〇センチメートルと認められる。)を装着して爆発の実験をしてみたところ、爆発後雷管は飛散して原形をとどめなかつたが導火線は鉤形に幾分曲つて同じ長さで残つたというのであり、四四・一〇・五服部実験報告書によれば、長さ一五センチメートルの導火線と雷管とダイナマイトとを通常の方法により装着し、サイダーびんにダイナマイト部分を入れて地面上で爆発実験をしたところ、爆発後導火線は表面の巻糸がはがれ諸処切れているものがあるが原形を保ち、その長さは雷管に装着された部分がちぎれたため三―五センチメートルほど短くなつていたというのであり、四六・一〇・一八衣山鑑定書(東箕輪関係)に記載された実験の結果によれば、長さ二〇センチメートルの導火線を装着した雷管を爆発させた場合導火線は一七センチメートルまたは一五センチメートルの長さで原形をとどめて残り、さらにダイナマイトを装着して爆発させた場合でも八センチメートルと三センチメートルの二つにちぎれたがそれぞれ原形をとどめている。また、衣山鑑定書(非持関係)によると、ダイナマイトを爆発させた実験において、やはり導火線は八センチメートルの長さで原形をとどめていたのである。このように多くの実験において導火線がその長さは別としてすべて原形をとどめているのに、本件の場合それが現場で発見採取されなかつたというのはなぜであろうか。

この点に関し、捜査段階で鑑定をした警察技官等々力栄一郎は原審証人として、導火線というものは短いとこのようにこなごなになりやすいという意味のことを述べている。これは五・二三等々力鑑定書(東箕輪関係)に「導火線小片となりたるを以て比較的短寸法のものを使用したものと推定す」と記載されているのに照応するものであるが、「比較的短寸法」とはどの程度の長さのものをいうのか明らかでないばかりでなく、同証人のこの点の証言はいわば結論を言うだけでその根拠の説明を欠いているから前記各実験の結果と対照してみて必ずしも信憑力の高いものとはいいがたい。金子自白によれば、その使用した導火線の長さは前記のように一二センチメートル位だつたというのであり、これに対し爆発直前に導火線を目撃した浜明巡査の原審証言によればその長さは約二〇センチメートル位だつたと思うというのであつて、その言うところが(福沢自白によると、この導火線は同被告人が被告人李に渡したものの一部であり、他の一部は前記豚小屋で発見されたことになる筋合いであるから、本来その長さがそう違うはずもないと考えられるのに、豚小屋の分の長さが約二〇センチメートルであるのに対し、金子自白によると本件の分は一二センチメートル位だというのもややうなずきがたいところである。)、かりに金子自白のとおりとすれば前記各実験の多くに用いられた導火線の二〇センチメートルよりは短いわけである。しかし、前記服部実験では長さ一五センチメートルの導火線が使用されて同様の結果をみているのであるから、右の程度の等々力証言をもつてしては、やはりいまだこの点の疑問が十分解明されたものとはいえない。次に、宮坂敞憲の当審証言によると、同人は、その経験によればダイナマイトが爆発したときは導火線はばらばらになつて飛び散るのが普通だと述べているが、同人は鑑識係であるにしても科学的専門家ではないのであるし、前記各実験の結果に徴すれば、にわかにこの証言を採用することも困難である。なお、検察官は当審の最終弁論において、爆風圧とインクびんのこなごなになつて飛び散る影響でこのような結果になつたものだと主張するので考えてみるのに、たしかに実験は一定の条件のもとに行なわれるものであるから、一をもつて直ちに条件を異にする他の場合に及ぼすことには慎重でなければならないであろう。しかし、本件のように数個の実験によつていずれも導火線が原形をとどめることが示された以上、他の場合にも同様の結果が生ずるであろうという推定は相当強く働くといわざるをえない。したがつてこの推定を覆えすには特別の立証を必要とするところ、その点に関してはなんらの証拠も存しないのである(かえつて、前記の衣山((非持関係))実験によると、ダイナマイトをサイダーびんに入れた状態で爆発させた場合でも導火線は前述のとおり八センチメートルの長さで残つたし、また服部鑑定人の実験によつても、ダイナマイトをサイダーびん内で爆発させた場合と入れないで爆発させた場合とで導火線の破損状態にほとんど差異のないことが明らかにされているのであるから、これらの実験の結果に徴すると、インクびんがこなごなになつて飛んだ事実が導火線の残存形態に影響するとは考えがたい。)。それゆえ、この検察官の所論も採用するわけにいかない。

なお、この点は特に主張されていないけれども、原形をとどめた導火線の残りがあるいは発見洩れであつたのではないかということも一応考えてみる必要があるであろう。実験の結果によれば、服部鑑定の実験では、導火線は爆風圧のため相当な距離まで吹き飛ばされその落下地点が認知できなかつたと報告されているのであるが(その距離については、同実験報告書の別の箇所に「三〇メートル内外吹き飛ばされるものと思われる。」との記載もある。しかし、実験の際には前記のように落下地点が認知されなかつたというのであつて、その推測の根拠は明らかにされていない。)、この実験が近くに障害物のない平地上で行なわれたものであるのに対し、本件現場と同様の装置を設けて鑑定人衣山太郎がダイナマイトを爆発させて実験した結果によれば、導火線は長さ八センチメートルのものと長さ三センチメートルのものとの二つにちぎれたが、前者は爆発地点から七〇センチメートル、後者は二・三メートルの位置に落ちていたというのであるから(なお同鑑定人の非持駐在所関係実験では、六・七メートル飛んでいる。)、これによつてみると、本件導火線が原形を保つて残存していたとすれば、爆発地点からさほど遠くない範囲すなわち現場検証実施者の発見しうる範囲内に落ちている公算はきわめて大きいとみなければならない。ところで、前記宮坂検証調書によると、現場における証拠物の捜索は相当綿密に行なわれたことが窺われるのであつて、かなり微細なものも採取され、その範囲も爆発地点から四・六七メートルのところにあつた導火線破片と思われる一×二・五センチメートルの小紙片まで発見しているのであるから、かりにそれよりもつと離れた地点にせよ、もし導火線の原形をとどめたものが落ちていたとすれば、検証に当たつた捜査官がこれを見逃がすというのは、いかにも考えにくいことである。そうしてみると、本件現場に導火線の原形をとどめたものが残存していなかつた疑いはきわめて強いといわなければならない。

そこで、右のように本件の導火線が原形をとどめなかつたということになると、はたして被告人金子の自白したような装置、方法によつて本件爆発が起こつたものであるかどうかについても重大な疑問が生ずるのであつて、そのことはまたひいて同被告人の実行行為に関する自白全体の信用性にも疑いを抱かせることにならざるをえないのである。

(二)  コンクリート上に従来なかつた薄青色痕跡が生じた事実

四・三〇宮坂検証調書(東箕輪村駐在所)によると、「本件の現場である駐在所玄関前のコンクリートの上に直径四センチメートル位の薄青色円形状の痕跡が認められ、立会人浜明の言によれば爆発物を発見した時この痕跡の箇所には小型インクびんようのものが置かれており、爆発前にはこの箇所にかような痕跡はなかつたというのであるから、この痕跡は爆発時に生じたものと認められる」という趣旨の記載があつて、この現場の状況は硫酸の入つたインクびんをコンクリートの上に置いたという被告人金子の前記自白といかにも符合するかのごとくである。しかしながら、少し考えてみると明らかなように、インクが青色、黒色等の色を帯びていることは当然としても、インクびん自体が着色されているわけではなく、それはむしろ透明である場合が多いのであるし、びんそのものは爆発によつて小破片となり飛び散るわけであるから、びん自体によつてかような痕跡がコンクリートにつくということは考えられない。また、金子自白によれば、びん内には硫酸が入つていたというのであるから、インクは存在しなかつたとみるのが自然であるし、かりにインクの使い残りが硫酸と混ざつて入つていたとしても、爆発によりびん内の液体は飛沫となつて四散するはずで、びんの置かれた箇所だけに円形状の痕跡として付着するということはおよそ考えがたいところである。そうしてみると、この薄青色の痕跡は金子自白にいうようなインクびんの破裂によつて生じたものとはいえないのであつて、なぜこのような痕跡が生じたのかはまことに不可解だというほかはない。さればといつて、爆発時前にはかような痕跡はなかつたという浜明の指示説明も、同人が同駐在所勤務の巡査で駐在所建物に平素居住していた者であることを考えると、一概にこれをでたらめであるとして排斥もしがたいのである。そうであるとすれば本件爆発の装置は被告人金子の自白するような当該箇所にインクびんを置く方法とはなにか違つた形態のものではなかつたかという疑いも生じてくるのであつて、これもまた金子自白の信用性を動揺させるものであることは否定できない。

五  駐在所裏の足跡について

前記宮坂検証調書によれば、同駐在所南壁側(すなわち道路から見て裏側)より五メートルを距てた桑園中に現場の方向に歩行したと認められる文数不明の小波形運動靴様足跡一個が発見されたとの記載があり、同調書添付の写真15によると、石膏でその足型を採取したことが認められる。ところで、まず問題はこの足跡がいつつけられたものかという点であるが、(証拠略)を総合すると、問題の足跡を写した前記検証調書添付の15の写真とその次の16の写真とは、掲示板にはられた五月二日付の声明書を写した写真に続いてとられているところからみると、いかなる理由によるものか五月二日になつて撮影されたものと認められるが、前記検証調書にその足跡が事件に関係ある疑いのあるものとしてわざわざ記載されていることは、その足跡が四月三〇日の午後四時から行なわれた現場検証の際にはすでに存在しており、かつ同日早朝の爆発以後駐在所周辺には現場保存が行なわれていてその間にこのような足跡のつけられることが考えられないことにかんがみれば爆発以前に印せられたものと認められること、そしてその印せられた時期は不明であるにしても、その状態からみてさほど古いものとは思われないことを物語るものである。またその足跡が当該駐在所勤務の浜明巡査ないしは前夜その周辺の警戒にあたつた他の警察官または心当たりのある者のものでないことも当然調査したうえのことであるはずであるから、それ以外の者の足跡とみるほかはなく、前記検証調書によつて認められるその足跡の位置をみると、その地点は駐在所建物のすぐ裏側であるとはいえ、駐在所に出入りする者以外の者が通常歩行しそうもない桑畑の中で、かかる場所に足跡が存在するのは、やはりなんとしても異状であるといわざるをえない。さればこそ現場検証実施者がこれを事件に関係ある足跡、すなわち爆発装置を仕掛けた犯人自身のものかまたは駐在所内部の様子を窺うため裏側のこの辺に近づいた共犯者の足跡ではないかと疑つたのであろうし、その疑いはまことに無理からぬことに思われる。ところが、金子自白によれば、同被告人は自宅からまつすぐに駐在所玄関前へ行つたというのであつて裏側へ立ち回つたことにはなつておらず、また現場に共犯者がいたということにもなつていないのであるからこの自白は明らかに右の疑惑とは矛盾する。もとより、右の足跡が犯人またはその共犯者の足跡ではないかという疑いは、要するに一つの疑惑にすぎないのであつて、その程度がきわめて強いともいえないのであるが、それにしても、前に述べた金子自白の真実性に対するいくつかの疑いと合わせて考えるとき、やはりこれに対する一つの疑いとして残るといわざるをえない。

六  被告人金子の四月二八日のアリバイについて

金子自白によると、同被告人は、本件爆発事件発生前の四月二八日の午後九時前後ごろ中箕輪町木下にある南洙学の家で被告人李および同小松と会合し、そこで初めて東箕輪村駐在所爆破の計画を聞かされてその実行を引き受けたことになつている。そして、同自白によれば、同被告人はこの謀議の際の打ち合わせに基づき翌二九日の午後松島駅で被告人小松からダイナマイト、発火薬などを受け取り、これを持ち帰つて翌三〇日未明に駐在所へ仕掛けたというのであるから、右の南洙学方会合の行なわれた日の点に記憶違いがあるはずはないと考えられる。ところが、当審で証拠として取り調べた長松寺の寺務日誌の同年四月二六日の項には「三井通男氏(観音祭青年会委員長)、観音祭打合せ会合を廿八日夜と約す」との記載があり、同月二八日の項には「観音祭青年会委員会、八時より、十一時皈る」との記載があつて、(証拠略)によると、右の観音祭というのは同村長岡部落にある長松寺に祭られた観音の祭で五月二、三の両日に行われることになつており、その祭の行事については青年会文化部員であり同時に公民館文化部第二部員である者が中心となつて活動することになつていて、その準備の打ち合わせのため二八日夜の前記日誌にある会合が開かれたことが認められる。そして、右日誌によると、被告人金子が三月二八日に公民館文化部第二部の九人の部員の一人に選ばれたことは明らかであり、(証拠略)によれば、右の会合では観音祭のために寄付を集める分担を定めることも議題となつていて部員全員が集まらないと困るので、事前に各人の都合を聞いて会合の日を定めたと思うというのであり、また、被告人金子は部員の中でも比較的年長で、熱心に活動していたというのである。(同被告人が観音祭の熱心な推進者であつたことは前記山崎証人も同様に供述している。)。そうしてみると、この四月二八日夜の会合に被告人金子が出席していたという推測はかなり強く成り立つといわなければならない。しかるに、他方、金子自白をみると、同被告人が同夜南方へ行くため自宅を出発した時刻は、あるいは午後八時ごろといい、あるいは八時半ごろといつているが、途中で自転車のパンクを修理したことは述べていてもいずれにしても自宅から南方へ直接に行つたとしか読めない供述になつている(また時間の関係からいつてもこの自白では途中長松寺の会合に出席することは困難であろう。)。では、同被告人が南方会合終了後長松寺の会合に遅れて出席したと考える余地はないかというと、金子自白によれば、南方の会合は午後九時半ごろ終つたというのであるから、この会合終了時が会合の内容からみていささか早すぎるのではないかという疑いのあることはともかくとして、これによれば午後一一時ごろまで行なわれていた長松寺の会合にその帰りに出席する余裕がなかつたとはいえない。しかし、金子自白にはその帰りに長松寺へ立ち寄つたというようなことは一言も出ていないばかりでなく、最も詳細な自白である六・一六洞口調書では「小松さんと李の二人には其の場で別れて家へ帰りました。」とあるのであつて、これはどこへも立ち寄らずに帰宅したという趣旨だとみるほかはない。また、村の行事として重要である観音祭の打ち合せ会に、重要メンバーとみられる被告人金子がこのように遅く出席するということも考えにくいところである((証拠略)によると、打ち合せが終つたあとは茶菓子が出て雑談をしていたというのである。)。したがつて、金子自白は、結局、この二八日の夜の長松寺の打ち合わせには出席しなかつたという趣旨のものとみなければならず、同被告人が長松寺における会合に出席したということになれば、この自白の信用性は崩れざるをえないわけである。もつとも、前記各証言によつても、被告人金子が長松寺の会合に欠席した可能性が絶対になかつたとまではいい切れない。それゆえ、南洙学方会合に出席しなかつたとのアリバイが完全に成立したとはもちろんいえないのであるが、それにしても、前述した長松寺会合の趣旨および被告人金子の立場からしてそれに出席した公算が相当大きいことを考えると、二八日の南洙学方会合に関する金子自白の真実性にある程度の疑問が生じてくることもまたやむをえないのである。

七  結論

そこで、以上述べた諸点を総合して考えると、被告人金子の捜査段階における自白は、一面においてその真実性を否定しがたい感があると同時に、いくつかの重要な点においてその内容が証拠に現われた客観的事実と符合しない疑いがあることも認めざるをえないのであつて、これらの点がさらに証拠によつて解明されないかぎり、当該自白部分の真実性には合理的な疑いが残るといわなければならない。そして、右の自白に真実でない疑いが存在する以上、この点に関する被告人福沢の供述もまたその真実性をそのまま信用することはできない筋合いであると同時に、原判決の認定する四月二八日の南洙学方会合は被告人金子が実行担当者であることを前提としたもので、この点に関する金子自白の真実性も崩壊するほかはない。また、さらにその前提となつている四月二六日の金甲竜方における東箕輪村駐在所に対する爆発物使用の共謀の事実についても、それに列席したという被告人福沢、同村田の自白全体の真実性に疑問があることのちに述べるとおりであるばかりでなく、右の各自白および被告人金子、同西村、同梁の自白によれば、この金甲竜方会合において本件東箕輪村駐在所ならびに非持駐在所および伊那税務署に対する襲撃が謀議決定され、非持駐在所については被告人福沢が、伊那税務署については被告人村田がそれぞれその実行を引き受けたうえ、この謀議に基づき、前者については被告人福沢が被告人梁を誘つて実行を共にし、後者については被告人村田が被告人西村を引き入れてともに実行を担当し、本件の東箕輪村駐在所襲撃についてはその後被告人李および同小松が被告人金子に実行を委嘱したことになつていて、その間に一連の密接不可分の関係があるわけであるから、すでに述べたように被告人金子の本件実行担当の事実、したがつてまた南洙学方における実行引き受けの事実を認めることができず、またのちに述べるように非持駐在所に対する被告人福沢、同梁の襲撃の実行の事実および伊那税務署襲撃についての被告人村田、同西村の実行担当の事実が認められない以上は、その基幹となる前記金甲竜方謀議の事実の存在にもまた疑問が生ずるのは自然であつて、これだけを採りあげて真実であるとすることは困難である。したがつて、この金甲竜方における共謀の事実もまたその証明が不十分であるといわざるをえない。

してみれば、冒頭に掲げた原判決のこの事件に関する認定事実はその証明がないことに帰するわけであるから、これを有罪とした原判決のこの部分は判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があることとなり、論旨はこの点においても理由があるといわなければならない。

第五非持駐在所事件

一  原判決の認定した事実

非持駐在所事件として原判決の認定した事実の要旨は、

「被告人神戸、同李、同福沢、同村田、同宮原は、昭和二七年四月二六日前示金甲竜方において、被告人福沢が被告人梁とともに上伊那郡美和村大字非持四八二番地所在の非持駐在所をダイナマイトで襲撃することを共謀し、これに基づき被告人福沢は同月二七日に同郡伊那町宮本町の被告人梁方において同人に対し金甲竜方会合の内容を説明し、梁も福沢とともに非持駐在所を襲撃するように決定されたことを告げたところ、被告人梁もこれに加担すると承諾し、同月三〇日午前〇時すぎ、両名は駅前派出所におけると同一構造の時限発火式ダイナマイト一本および濃硫酸入りインクびんを携えて前示の非持駐在所におもむき、同所表側縁下にこれらの爆破用品を差し込み、駅前派出所事件におけると同様の化学反応により右ダイナマイトを爆発させるように装置し、もつて治安を妨げる目的で爆発物を使用し、よつて同日午前一時四〇分ごろこれを爆発させた。」というのである。

二  はじめに

証拠によると、原判決認定の日時に非持駐在所の縁側下に仕掛けられたダイナマイトによつて爆発が起こつたことは認めざるをえないところであるが、他の四箇所における爆発物所持事件、爆発物使用事件ないし放火未遂事件がいずれも現場付近で警察側による警戒ないし見張りが行なわれている所で実行されたのに対して、この事件は警察当局の予想するところでなく、その警戒のないままに爆発が起こつたのであつた。そして、被告人福沢は六月五日辰野警察署放火未遂の容疑によつて逮捕、次で同月七日勾留されたものの、同月二六日に至つて、被告人梁とともに非持駐在所にダイナマイトを装置し、これを爆発せしめたとの公訴事実のもとに起訴され、求令状により同日あらためて勾留された。同被告人は当初司法警察員の取調に対し黙秘したが、六月一一日以降は司法警察員、検察官に対し、また証人として尋問された際に裁判官に対し詳細な自白をしている。

他方、被告人梁は六月一三日に被告人福沢とともに非持駐在所においてダイナマイトを爆発させたとの容疑によつて逮捕され、同人も当初黙秘していたが、同月二八日に至つて右の事実を司法警察員に自白し、以後検察官に対しても詳細な自白をしているのである。

そして、両名の供述の内容をみるのに、その供述するところは具体的で、しかも両者ほぼ一致しており、いかにも真実を述べたもののように受けとられる。しかしながら、両名がこの爆破事件の真犯人であることについては、他に目撃者もなく、また両名を犯人であるとするだけの的確な物証もないのであつて、結局は、両名の自白がほとんど唯一の証拠であるといつてよいから、各自白の真実性については十分慎重な検討を必要とするところ、弁護人の所論にかんがみ、一件記録および証拠物を精査し、かつ当審における事実取調の結果をあわせて検討してみるのに、いろいろの点、特に現場ないし付近で発見された足跡ないしは証拠物などとの関係においていくつかのぬぐいきれない疑問が見出されるのであつて、これによつてみれば両名の一見真実らしい自白も、これをそのまま真実であるとして容認するには、なお疑いが残るといわなければならない。これを詳説すれば、以下のとおりである。

三  現場およびその付近から採取された多数の足跡の中に被告人福沢、同梁の足跡であることを認めしめるに足るものがなかつたことについて。

(1)  被告人福沢、同梁の供述

まず、被告人両名が現場付近に到着した後の足取りないし行動についての両名の自白をみるのに、被告人福沢の六・一一、六・一七および六・二二西沢篤志調書、六・一四相沢調書、六・二三草深調書によると、両名は徒歩で午後九時半ないし一〇時ごろ非持駐在所前に到着したが、時限発火式ダイナマイトを仕掛けるのは午前〇時とあらかじめきめられていたので、それまで待つこととし、両名とも駐在所の東側を走つている県道三義、金沢線を南方に約一〇メートル進んだところから右(東)側の田圃に上り、田圃づたいに中山英雄宅の裏手を廻り、同人宅の南側の道路より少し高い田圃の中程に来て、藁を持つてきて休息した、そこは道路よりやや高く、駐在所から約三〇メートル離れており、駐在所正面を見渡すことができた、藁のあつた場所はそこから東方に五〇メートル位上つた田圃であつた、付近の家の時計が一二時を打つたので道路に降り、梁は駐在所前の三叉路で見張りをし、自分は駐在所縁側の左側端の支柱から右側の奥に一五ないし一八センチメートル奥まつた土の上に、発火薬つきのダイナマイトを入れたサイダーびんを置き、右の発火薬を縁のほとんど外側の土に置かれたインクびんの中の硫酸に入れて、仕掛けを終え、両名が急いで、もと来た道を引き返した、というのである。

次に梁の六・二八木村調書、七・四相沢調書によると、両名とも駐在所の前に午後八時ないし九時に到着したあと、駐在所の斜め前の田圃に上つたが、福沢がどこからか藁をもつてきたので、それを下に敷いて二人で時間のくるのを待つた、すぐ横には農家があつて、そこの時計が一二時を打つたので、田圃から降りて、自分は福沢にいわれて駐在所前の三叉路に立つて見張りをし、福沢は五分位たつた後戻つてきたので、二人とももと来た道を引き返した、というのである。

右の両名の供述を対比すると、駐在所に到着した時間について一時間余の差があること、駐在所前に到着してから、藁を敷いて休息した田圃に至るまでの足取りについて回り道をしたかしないかの差があることのほかは、ほとんど合致しているといつてよい。

また、当時両名が使用していたはきものについては、被告人福沢の六・一四相沢調書、六・一七西沢篤志調書によれば、被告人福沢自身はゴム長靴をはいていたが、梁は地下足袋をはいていたと述べ、他方、被告人梁の六・二八木村調書、七・四相沢調書によると、自分は多分革靴をはいていたと思うと供述している。

(2)  現場などで採取された足跡

次に、本件爆発後に警察側が現場およびその付近で発見し採取した足跡についてみると、(証拠略)によると、爆発事件発生の報に接し、四月三〇日午後四時ごろ長野県警から捜査課警部補西沢篤志が非持駐在所に到着し、午後六時ごろから県警鑑識課巡査部長鮎沢光治および高遠警察署巡査部長福沢達夫の補助をうけて足跡を調べ、石膏を流して採取にかかつたこと、その結果、爆発現場付近など駐在所の南側敷地内から足跡一四個(⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑳。いずれも検証調書添付の図面の番号を指す。以下同じ。)、駐在所敷地と接して南西を通る県道高遠粟沢線上より足跡五個(③④⑤⑥⑦)、同敷地と接して東側を通る県道三義金沢線上より足跡五個(およびの一ないし四)、また県道三義金沢線から約五〇メートル山寄りの、中山英雄の田圃から足跡二個()、駐在所の東南約五〇メートルの、春日安幸の田圃から足跡二個(、の一)、県道高遠粟沢線から約二〇〇メートル山寄りの、中山清雄の田圃から足跡一個()、同県道から西方約一〇〇メートルの、伊藤幸一郎の田圃から足跡一個()、以上合計二九個を採取したことを認めることができる。

(3)  右の足跡のつけられたと思われる時期

ところで、右の足跡がいつつけられたものかにつき考えてみるのに、(証拠略)を総合して四月二九日の非持駐在所付近の天候をみると、同日昼間には雨が降つていたが夜になつて雨が上つたことを認めることができ、その雨の上つた時刻は、右鑑定書によれば諏訪では二三時、飯田では二三時四〇分というのであるから、非持においてもその前後には雨がやんだものと推定してよいであろう。そして現場付近とか田圃などで多数の足跡を採取することができたのは、土質もさることながら雨のため地面が湿つていたため、足跡がかなり明瞭に印せられたからであると考えられる(雨上りの地面の状態については、当審で取り調べたものと非持駐在所関係写真綴一葉の写真参照)。降雨前につけられた足跡は雨ないし流水で消失することが多いと考えられ、かりにこれらの足跡が残つたとしても、それは少くとも文数や型態などが測定されるほどに鮮明であつたとは思われないし、降雨中に印せられたものについても同じことがいえよう。そうしてみると、右の二九個に及ぶ足跡は、二九日夜雨の上つたのちにつけられた公算が大であると推定せざるをえない。

(4)  被告人福沢、同梁の足跡と採取された多数の足跡との関係

被告人福沢、同梁の前記自白によれば、右両名は雨の上つた二九日の午後一二時ごろ非持駐在所建物に近づき、被告人梁は駐在所前の三叉路で見張りをし、被告人福沢は駐在所縁側のところまで来て縁側の下の土の上に爆破装置を仕掛けたというのである。そして、右自白によれば、被告人福沢は駐在所前道路から駐在所南側敷地内に入つて南側縁側のところまで歩いたことになるところ、右の道路上および敷地内には前記のようにかなり多くの足跡が残つており、それらの足跡は同夜雨の上つた後に印せられた公算が大であるとみる以上は、三叉路にいたという被告人梁についてはともかく、少なくとも被告人福沢の足跡の若干はその中に含まれていなければならないと考えるのがきわめて自然である。

(イ) ところが、原審においては、福沢のはいていたというゴム長靴を弁護人の申請により昭和二八年五月一三日福沢に仮還付し、また梁のはいていたという地下足袋は押収されていないという事情に加えて、検察官は当審ではじめて捜査の経過を明らかにするという趣旨で福沢達夫の現場足跡採取結果復命書、村田正希の鑑定報告書抄本の取調を請求したものの、原審ではあえてこれらの書面を提出しなかつたことを考えると、検察官は採取された足跡のなかに両名の足跡が含まれていることを立証する意思をもたなかつたというほかはなく、このことは、これを立証する証拠が存在しなかつたからだとみられてもしかたのないところである。

(ロ) のみならず、当審で提出された右の二個の書類と前示検証調書とを対比検討して両名の足跡と多数の採取された足跡との関係をさらに考えてみると、(証拠略)によると、被告人福沢方から押収されたゴム長靴の靴底は、山形(波形)の模様であつたことが認められる。しかるに、多数の足跡のうちで、福沢のゴム長靴の跡と同じく波形のものであつたのは、であるが、これらはいずれも現場より離れた、春日安幸、中山英雄、中山清雄の各田圃の中で発見されたものであつて、かんじんの駐在所の周辺には同じ波形のゴム長靴の足跡が発見されておらず、発見されたのはすべてこれと形の異なる足跡ばかりである。思うに、もし福沢自白のように同人が駐在所の縁側下にダイナマイトを仕掛けたのが真実であるとすれば、現場ないしその付近にある足跡のうちに、どうして波形のゴム長靴の跡が含まれていないのであろうか。たしかに被告人福沢のゴム長靴と同型のの波形のゴム長靴跡の発見された田圃の位置と、予定の時間まで付近の田圃において憩つたという福沢自白とを対比すると、そのかぎりにおいて福沢自白には一応裏付けがあるようにもみえる。しかし、それはただ同型の足跡だというだけのことで、それが同一のものであるということまでは証明されていないばかりでなく、最も重要な駐在所南側敷地内ないしは付近道路上に同型の足跡すらないということは、いかにしても福沢自白と一致しないのである。もつとも、これに対しては、なんらかの原因で被告人福沢の足跡が印せられなかつたか、あるいは印せられてもその後に消滅したか、ないしは検証の際発見されなかつたのか、ということも一応考えてみる必要があるであろう。しかし、他に数多くの足跡が残つている駐在所南側敷地内において、もし被告人福沢が爆破装置を仕掛けるためそこを歩行したとすれば、一つも足跡が印せられないということはほとんど考えられないことであるし、もし印せられていたとすれば、これだけ多くの足跡を発見採取した警察官に発見洩れがあつたものとは思われない。また、いつたん印せられた足跡がのちに至つて消えるという点については、たしかに爆発の結果縁側上に積んであつた薪が相当数付近に飛散し、縁下の支柱、犬除板なども割れて飛んだ事実は認められるけれども、乾燥した砂地ででもあればともかく、他に明確な足跡が印せられているようないわばぬかつた地面において、爆風のため足跡が吹き消されるということはありえないと考えられるし、薪等が地上に落下したため既存の足跡に若干影響することはありえても、検証調書にみられる当該場所における薪の散乱状況からすれば、被告人福沢のつけたであろう数個の足跡のすべてが一つ残らずそれによつて消えたりその形が採取不能なほどに崩れるということも考えにくいところで、少なくとも前述の疑問が十分解明されているとはいえないのである。そうであるとすれば、他の足跡があるにかかわらず被告人福沢の足跡が駐在所周辺から発見されなかつたということは、駐在所縁側下に爆破装置を仕掛けたという福沢自白の真実性に重大な疑問を投げかけるものといわなければならない。

(ハ) 次に、被告人梁のはきものについては、前記のように、地下足袋ともいい革靴ともいつていて判然しないのであるが、村田鑑定において対照に使用されたのは裏が山形(波形)の地下足袋であるところ、前記現場足跡採取結果復命書によれば、地下足袋の跡があつたのは、駐在所敷地に接する県道高遠粟沢線上の④⑤、駐在所縁側に近接した⑭、同所敷地内の⑮⑳、前記春日安幸の田圃内のの一である。しかし、右の対照に使用された地下足袋が福沢自白にいう地下足袋であるのかどうかがそもそも不明であるばかりでなく、この地下足袋と右の各足跡との間の同一性は、なんら証明されていないのであるから、これらの足跡がそれ自体として被告人梁の犯行を証明するものでないことはいうまでもないところである。ただ、その足跡のうち、地下足袋のかかと部分のみが残つていた⑭は縁側下の爆破地点に最も接近して存在するものであるところ、被告人福沢の六・一七西沢篤志調書によると、福沢が縁側下にダイナマイトを仕掛けていたとき、見張りをしていた梁がこれをのぞきにきたようにも思うと述べているので、右の⑭の地下足袋の跡はこの福沢の供述を裏づけるものであるかのようにみえる。しかし、福沢の数多くの供述の中で、右のことを述べたものは、六・一七調書のみであり、それ以外の調書においては梁は三叉路のところで見張つていたとのみ述べているところからみると、福沢の六・一四相沢調書の中に梁が地下足袋をはいていたことが述べられたところから、六・一七西沢篤志の取調のとき、⑭の地下足袋の跡とも関連させて、右のような福沢の供述がえられたとの疑いもあるし、また梁自身は六・二八木村調書、七・四相沢調書を通じ一貫して駐在所前の三叉路で終始見張りをしていたと述べていることをも考え合わせると、⑭の足跡をもつて福沢の六・一七西沢篤志調書の供述が真実であるとの資料とし、ひいて梁が⑭にその足跡を印したと考えることは、とうていできないといわねばならない。

(ニ) では、現場およびその付近で発見された多数の足跡はいつだれによつてどのようにしてつけられたものなのであろうか。

関係証拠によると、採取された足跡の種別は、婦人用雨靴一〇文半六個、地下足袋のかかと二個、同一一文位四個、靴底が菱形模様のゴム靴七個、同じく波形模様のゴム靴四個、そして下駄六個であり、そのうち駐在所敷地内にあつた一四個だけをみても、婦人用雨靴、地下足袋、ゴム靴、下駄等多種にわたつている。そして、前記のようにこれらの足跡が二九日夜かなり遅く雨がやんでからあとにつけられた蓋然性が大であると考えられることからみると、それは雨が上つてから翌三〇日の午後六時に検証が開始されるまでの間に印せられたとみざるをえないわけであるが、二九日深夜雨が上つてから爆発までの間にその付近の道路を通行した者が全くなかつたとはいい切れないにしても、道路に接しているとはいえそれとは区分される駐在所敷地に用のない通行人が夜間立ち入るということも考えにくいところであるし、爆発が起こつたのちは警察側による現場保存が行なわれたはずであるから、その後に関係者以外の者がみだりに立ち入るということも常識では考えにくい。駐在所の前がバスの停留所になつていた関係で、三〇日昼間は乗降客が相当数あつたことも考えられるし、また平素は駐在所南側の縁に腰をかけてバスを待つ者もあつたようであるから、それらの者の足跡かとも考えてみても、このような大事件の発生後爆発地点に近接した駐在所敷地内に一般人が自由に立ち入れるというのは現場保存がなされていなかつたにひとしいことになるが、検証調書添付の写真をみても、右敷地を含め駐在所前の道路上に綱を張つて人の立入りを禁じていたことが歴然と認められるのである。そこで、弁護人は、これらの足跡は警察側がいわゆる事件でつち上げのため自ら故意につけたものだという。しかし、単なる宣伝だけのためならばともかく、所論によれば警察は爆破事件の犯人をそれによつて仕立てて逮捕する予定だつたというのであるから、特定の人と結びつかない足跡をむやみにつけてみたとしてもなんの意味もなく、かえつて反対の証拠を残すことになるのは、いやしくも捜査に携わる者としては当然わかることであつて、そのようなことをするのはいかにも常識に反し、考えられないところである。のみならず、(証拠略)に徴すると、高遠警察署員であつた福沢達夫らは四月三〇日午後六時の検証開始と同時に現場および付近にあつた足跡を精査し、そのうちで採取できるものはすべて石膏を流して採取したこと、その後被告人福沢が六月五日、同梁が同月一三日逮捕された後に両人のはきものが採取された足跡と合致するかどうかを照合するために鑑定に回付したことが認められるのであつて、これによつてみても、警察側が当時これらの足跡を真犯人のものではないかと考え、その割り出しのためにこれを採取したものであることは十分窺うことができるから、警察側が故意に足跡をつけたとの所論は採用することができない。そうであるとしてみれば、これらの足跡はさかのぼつて二九日の夜雨上り後爆発前に印せられた蓋然性が強いといわざるをえず、そのことは女性を含めた数人の者がその時刻に駐在所敷地内に立ち入り、中には爆発地点の近くまで来た者もあること(爆発地点直近に下駄および地下足袋の跡が一つずつあつたことに注意)を推測させるものであつて、いいかえるならばそれらの者が本件爆発物を仕掛けたのではないかとの疑いをも生じさせるものである。このことは、前示のように被告人両名の足跡が発見されないことと相まつて、本件の犯人であるとする被告人両名の自白の真実性に一層疑問を抱かせるものということができる。

以上の次第で、本件現場およびその付近で被告人両名の足跡が発見されず、かえつて氏名不詳者の多数の足跡が残つていた事実は、被告人両名の自白を真実なりとするにつき重大な障害となるものであつて、その真実性に対する疑いが合理的に解明されたとはとうていいいがたい。

四  雷管の破片が現場に残つていたことについて

福沢自白によれば、同被告人が仕掛けた時限発火式ダイナマイトは、ダイナマイトの先に雷管がついて、それに約一五センチメートルの導火線を装着せしめ、その先端に発火薬を入れた二重サツクをつけ、これをサイダーびんの中に入れたもので、実行の際はインクびん内の硫酸の中にそのサツクの部分をさしこんだというのである。ところが爆発後の状況をみるのに、(証拠略)によれば、駐在所縁側下の爆発中心より南方にそれぞれ九五センチメートル、六二センチメートル離れて縁外の土上に二個の雷管破片が発見されたことが認められ、六・二三等々力鑑定書によると、その一片の重量は〇・二六〇四グラム、大きさは約一・六五×〇・四五センチメートルであり、他片は重量〇・五九九グラム、大きさは約二・五×二・一五センチメートルであつたことを認めることができる。

しかるに、国警本部科学捜査研究所勤務の警察技官久保田光雄の原審証言によると、同人が岩井技官と共に雷管に導火線を装着して、その先に本件の駅前派出所事件に関連して豚小屋で発見された発火薬入りの二重サツクを付着せしめ、これを濃硫酸に浸して爆発の実験をしてみたところ、爆発の結果、雷管は飛散して原形をとどめなかつたというのであり、(証拠略)によつても、二〇センチメートルの導火線をつけた雷管をダイナマイトに埋没せしめて装着し、これをサイダーびんの中に入れたうえ、導火線に点火して爆発させたところ、雷管の破片は発見できなかつたというのであるから、右の二種類の実験の結果にかんがみれば、本件の場合二個の破片が爆発後なぜ残存して発見採取されたのかについては、解明を要するものがあるとしなければならない。もつとも、この点につき捜査段階で鑑定をした警察技官等々力栄一郎は原審証人として、雷管を正規に装着すると爆発後雷管は飛散するが、雷管の装着が不完全であると、爆発は完全であつても雷管の破片は残るのであり、以前このような実験結果をえたことがあると述べ、これは同人の六・二三鑑定書に「雷管の破片がこのような形状を示すのは実験結果雷管のみを爆破した場合及び雷管に導火線押入不充分にして爆破した場合、爆薬に雷管押入不充分の場合に資料の如き形状を示す。」と記載されているのに照応するものである。また、久保田光雄の原審一二回証言も、雷管の破片が残らないのは、雷管をダイナマイトの中に深く挿入して正規の装着をした結果であり、その挿入が不完全なときまたは雷管だけを破裂させたときには、破片として残ることがあると述べているのであつて、これらによれば、本件の場合も雷管の挿入が不完全であつたとすれば破片が残存していても不審はないようにみえる。しかし、両名の各証言によつても、どの程度に装着を不完全にすれば雷管の破片が残るのか、またどのような理由で破片が残るのかは明らかでなく、その実験のデータも明らかにされていないので、その信憑力には問題が残るばかりでなく、雷管の挿入不完全の場合と雷管のみを破裂させた場合とを比較すると、後者の場合より前者の場合のほうが大きい破片が残るとは考えがたいところ、(証拠略)によれば、雷管のみを破裂させた場合、その破片が近接した木の扉に無数の小さい傷痕を生じたというのであるから、その個々の破片はきわめて小さかつたに相違なく、また前記久保田証言によつても、雷管のみを用いた実験の結果残つた破片は一ミリメートル平方ぐらいの小さいものだというのである。そうしてみると、かりに本件の場合雷管の挿入が不十分であつたため破片が残つたものとみても、前記のような一センチメートルないし二センチメートル以上の一辺を持つかなり大きな破片が残るということはやはり理解しがたいところで、挿入不完全であると破片が残るという等々力証言、久保田証言を正しいとしても、なぜこのような大きな破片が残つたかについては依然として疑問があり、その疑問が証拠によつて科学的に解明されているとはいえない。しかも、そればかりでなく、かりにそのようなことがありうるとしても、福沢自白によれば、この爆破装置を作つたのは被告人福沢だということになつているから、本件のように爆破後に雷管の破片が残るためには、同被告人が導火線を雷管に不完全に挿入したか、あるいは雷管をダイナマイトに不完全に装置したかのいずれかでなければならないところ、(証拠略)によると、福沢はかつて爆薬を使用した経験をもち、本件被告人らの中で唯一の技術指導者のような地位にあつて、時限発火装置を自ら作つて被告人李にも渡し、かつその際時限装置の使用方法を教示したというのであるから、そのような不完全な装着方法をもつて爆破装置を仕掛けたとは考えにくいところであり、また非持駐在所の縁側下に時限発火式ダイナマイトを仕掛けた模様についての自白をみてももとより装置を不完全にしたなどとは述べていないのである。そうとすれば、被告人福沢が特に不完全な挿入をしたという事実を想定してみてもその想定には無理があり、かかる事実を被告人らの不利益に認定することはできない筋合いである。そして、正規に挿入したものとすれば前記等々力、久保田証言によつても爆破後に雷管の破片が残ることはありえないことであるから、本件で証三九号のごとき雷管の破片が存在した事実は、はたして被告人福沢の自白したような装置、方法によつて爆発が起こつたものであるかどうかにつき重大な疑問を提起するものというべく、このことは、ひいて同被告人の実行行為に関する自白全体の信用性にも影響を与えずにはおかないのである。

五  導火線の残りが発見されなかつたことについて

すでに東箕輪村駐在所事件についての判断の中で述べたところから明らかなように、福沢自白のような装置をしてダイナマイトを爆発させると、導火線がある程度原形をとどめた状態で残ることは、(証拠略)に徴して明らかである。しかるに、(証拠略)によると、検証の際本件爆発の現場ないし付近において導火線の残りが発見されていないのであるが、このことが導火線が爆破後、残らなかつたことを意味するとすれば、数個の実験から帰納される経験則に反することとなり、前項で述べた雷管の破片が存在したことと同様に、はたして被告人福沢の自白したような装置、方法によつて爆発が起こつたのかどうかにつき深甚な疑念を抱かせることとなるといわなければならない。

もつとも、この点については、検証の際、導火線の残りがあるいは発見されなかつたにすぎないのではないかということも一応考えてみる必要があるのであつて、検察官弁論も、「本件現場で導火線の残渣が発見されなかつたのは現場一帯をそのつもりで捜索することの徹底さを欠いたか、それとも残渣がこまぎれとなつていて発見しにくかつたなどの事由に因るものと考える。」と述べているのである。しかしながら、近くに障害物のない平地上で行なわれた服部鑑定の実験のように導火線の残りが吹きとばされて落下地点が判明しなかつた場合は格別、本件非持駐在所と同様の装置を設けて鑑定人衣山太郎が実験した結果によれば、六・七メートルの距離に導火線の残り八センチメートル(全長は二〇センチメートルであつた)が飛んで落ちており、また同鑑定人が東箕輪村駐在所と同様の装置を設けた実験によれば、全長二〇センチメートルの導火線の残りが二つにちぎれ、二・三メートルの距離に三センチメートルのもの、七センチメートルの距離に八センチメートルのものが飛んで落ちていたことを認めることができ、この衣山実験の結果に徴すると、本件でも導火線が一部原形を保つたまま右の程度の距離の範囲内に落ちている蓋然性はかなり高いといわなければならない。ところが、(証拠略)によれば、爆心地点に接する駐在所南側敷地内はもとより、これに接する県道高遠粟沢線上でも多くの足跡が発見採取されており、遠きは爆心地点より二〇メートル隔たつた水田中からもかなり小さい犬除板破片を発見し、また方角を異にしはるか離れた県道三義金沢線上で足跡を発見採取することすらしているのであつて、広範囲にわたりかなり綿密な検証と証拠品の発見を行なつたことが窺われる。そうしてみると、発見洩れということももちろんありえないことではないにしても、物が導火線の原形をとどめたものであるだけに、それが発見されなかつたところからみると、さようなものが存在しなかつたのではないかという疑いはどうしてもぬぐい去ることができないのである。したがつて、この導火線の残りが発見されていないという事実も、前に述べた諸点と合わせて考えるとき、被告人福沢および梁の自白の真実性に対する一つの疑いとして残ることは認めざるをえないところである。

六  結論

以上述べた諸点と、なお他の事件についての判断の中で述べた福沢自白の真実性についてのかずかずの疑問とを総合して考察すると、被告人福沢、同梁の本件実行行為を担当したとの捜査段階における各自白は、一面において真実ではないかとの感をいかにしても否定しがたいものがある反面、いくつかの点においてその自白内容が証拠に現われた客観的事実と符合しない疑いがあることも他の事件の自白と同様であつて、これらの自白を有罪の基礎とするためにはそれらの疑問点がさらに証拠によつて解明されなければならないところであり、それが解明されていない本件においては、当該自白部分の真実性には合理的な疑いがあるというのほかない。そして、本件非持駐在所事件の実行を担当したとの両名の自白に十分な真実性を認めることができない以上、右被告人両名の実行行為はその犯罪の証明がないといわざるをえず、なおその前提となつている四月二六日の金甲竜方における被告人神戸、同李、同福沢、同村田、同宮原の共同謀議の事実が証明十分でないことはすでに東箕輪村駐在所事件の項で説示したとおりであるから、ひつきよう原判決のこの事件に関する認定事実もその犯罪の証明がないことに帰し、これを有罪とした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があることとなるから、論旨はこの点においても理由がある。

第六伊那税務署事件

一  原判決の認定した事実

伊那税務署事件として原判決の認定した事実の要旨は、

「被告人神戸、同李、同福沢、同村田、同宮原は、昭和二七年四月二六日前示の金甲竜方の会合において、被告人村田が伊那税務署に対しダイナマイトおよび火炎びんを使用して襲撃することを共謀し、これに基づき被告人村田は同月二九日上伊那郡伊那町において被告人西村に対し金甲竜方の会合の内容を説明し実行をともにするよう勧誘したところ、被告人西村もこれを承諾し、同月三〇日午前〇時すぎごろ、被告人村田は、同福沢から入手した辰野警察署事件におけると同一構造の時限発火式火炎びん二本を、被告人西村は、ガラス空びんに砂をつめ中にダイナマイト二本をさしこみうち一本に駅前派出所事件におけると同一構造の発火薬および雷管の付着した導火線を装着した時限発火式ダイナマイトおよび濃硫酸入りインクびんをそれぞれ携えて、同町大字伊那所在の伊那税務署構内に至り、もつて同所で治安を妨げる目的で爆発物を所持した。」

というのである。

二  はじめに

証拠によれば、同年四月二九日の夜税務署が襲撃されるとの情報が入つたので、税務署職員および警察官が原判示伊那税務署の週辺を警戒していたところ二人の不審な男が税務署の構内に近づき、そのうちの一人が構内に入り、残つた一人が税務署前の道路上に立つているのを警戒中の同税務署職員中村貴高が発見し、路上の一人を誰何するやその者はもと来た道を逃げて行き、また、構内から引き返してきたいま一人に対し懐中電燈で上半身を照らすと、同人もまた逃げて行つて姿を見失つたことを認めることができる。そして、右の事件から約一か月半後の六月一三日に被告人村田、同西村が被告人福沢の自白に基づき右の犯人として爆発物取締罰則違反の嫌疑のもとに逮捕、次いで勾留され、被告人村田は司法警察員に対し六月一七日、二〇日、二一日に犯行を自白したが、その後自白をひるがえして検察官、裁判官に対しては自白しておらず、これに対し、被告人西村は司法警察員に対し同月一八日、一九日、二一日犯行を自白したほか検察官、裁判官に対しても同趣旨の供述をしている。なお、前記中村貴高は、六月二〇日司法警察員から被告人村田の写真を示され、自分が懐中電燈で照らしたのは同被告人に相違ないと述べ、同月三〇日検察官に対しても右の写真の男は自分が見た男と非常によく似ていると述べていることが注目されなければならない。

したがつて、本件伊那税務署事件において被告人村田、同西村がその実行を担当したことの証拠としては、右被告人両名の捜査段階における自白と、被告人福沢の間接ではあるが右両名に火炎びん、ダイナマイト等を渡して実行を担当させた旨の同じく捜査段階における自白と、当夜税務署前で目撃した人物が被告人村田に非常によく似ているという中村貴高の検察官に対する供述など(司法警察員に対するものはこれを立証するための証拠としては使用できない。)とがあるわけであつて、これらによれば、原判示事実を認定するのに十分であるようにみえる。しかしながら、本件ではそれ以外にこれに関連する物証たとえば当夜村田、西村が税務署へ携帯して行つたという火炎びんやダイナマイト等は全く発見されておらず(ちなみに、自白によれば、火炎びんは被告人村田が小沢川に投げ捨て、ダイナマイトの入つたびんと硫酸の入つたインクびんとは被告人福沢が天竜川に投げこんだというのであるが、水量が多く流れの早い天竜川はともかく、本件の捜査に当たつた真島理一郎の原審証言によれば小沢川の川ざらえもしなかつたことが認められるのであつて、このことは本件の捜査が物証に重点を置かなかつたことの一端を窺わせるものということができる。)、本件における原判決認定の当否は、もつぱら中村貴高の目撃供述の正確性と前記各自白の真実性いかんだけにかかつているのであるから、弁護人の各主張にかんがみ、一件記録を精査し、かつ当審における事実の取調の結果をも合わせ考えたうえ、これらの供述・自白の正確性・真実性を十分検討してみなければならない。

三  中村貴高が目撃したという人物について

中村貴高の目撃供述の正確性は、要するに、当時における同人の犯人に関する識別力と記憶力にかかつているわけであるが、原判決は伊那税務署事件に関する証拠として「証人中村貴高の第四〇、第四一回各公判調書及び第一〇回証拠調期日調書中の各供述記載」「同人の検察官に対する供述調書」を掲げているので、まず、これらの調書における供述内容をみることとする。

中村貴高の検察官に対する供述調書、すなわち六・三〇相沢調書は「私は午前〇時五分ごろ税務署と道路をへだてて真正面にある裁判所の門の中に入り構内の掲示板の裏で警戒していたところ、一〇分位たつたころ道路の上のほうから税務署のほうにおりてくる二人の男を見たが、彼らは税務署の西側にある通用口の上の家の前に立ち止まり、何か話していた。一人はそのままそこにいたが、他の一人は通用口から税務署の中に入つて行つた。私は道路に立ち止まつている人を誰何したところ、その人は急ぎ足でもと来た道のほうに戻つたが、やがて税務署構内に入つた男が引き返してきたので、私は約五メートル離れて懐中電燈でその男の上半身を照らすと、驚いて立ち止まりそうになり、私が誰かというと、返事しないでやにわに私の斜め前を横切つてもと来たほうに走り出した。この二人の人相、着衣などについていうと、税務署の中に入つた人は三〇才位にみえる男で、紺色ようのハツピかジヤンバーのようにみえるものを着ていたが、警察で十数枚の写真を見せられた際、その人に非常によく似ている写真があつて、それは被告人村田だということであつた。その男は懐中電燈で照らしたとき左手に風呂敷で包んだものを下げていた。もう一人の道路にいた男は暗くてよくわからなかつたが二五―六才位の感じの細型の男であつて、顔は全くみなかつた。」というのであり、次に中村の原審証言は「二人の男のうち税務署の中に入つた男は、顔の形は非常に丸い顔で髪の毛はのばしていなかつたのではないかと思うが、太つた人のようであつた。その後警察官から税務署の宿直室で七、八枚の写真を見せられ、その男によく似た一枚を指摘したら、警察官がその写真の男が自白したと言つた。」と述べ、また同四一回公判の証言は「事件のあつた日の翌日か翌々日に警察署で三―四〇〇枚の写真を見せられ、さらにもう一度写真を見せられたと思う。その後税務署の宿直室で一〇枚位を見せられ、その際事件当夜に懐中電燈で照らして見た顔の印象がはつきり残つていたので選び出したのであつて、警察官から暗示をうけて選び出したのではない。その男の顔の輪郭は非常に丸いという感じを受けたが、髪の毛はむしろ短かつたと思う。」と述べ、なお原審証言は「その人は丸刈であつて、眼鏡をかけていなかつた。警察で多数の写真を見せられたが、これに似た人の写真はなく、その後警察官が税務署の宿直室に来て七枚以上の写真を並べた際、非常に似ているものがあつたので、そう述べた。」というのである。そして、同人は当審証言でも、犯人は非常に丸顔であり、うんと長髪にのばしている感じはしなかつたといつて、ほぼ同旨の供述をしている。

以上の、中村の時期を異にした供述をまとめてみると、同人は警察で数回多数の顔写真を見せられたが、最後に至つて、目撃した犯人に非常によく似ているとして被告人村田の写真を選び出したことが認められると同時に、同人の記憶としては、その目撃した男の頭髪は丸刈か、ないし髪が短くて、非常に丸顔の太つた人であつたというのである。

ところで、中村が警察で多数の写真の中から被告人村田の写真一枚を選んだ際の供述調書は原審において取り調べられなかつたため、問題の写真も顕出されなかつたところ、当審において弁護人の請求により中村貴高の司法警察員山口光太郎に対する昭和二七年六月二〇日付供述調書(最終の四枚目に被告人村田の写真が貼付されている。)が取り調べられるに至つた。そして、この調書において中村は被告人村田の写真を指して「この写真の男はその時私が見た男に間違ありません」と断言しているのであるが、これに貼付された被告人村田の写真を見ると、その顔の輪郭は、そう面長であるとはいえないにしても、中村がくり返し述べているように非常に丸いという印象を与えるものとはいいがたく、ことにその頭髪に至つては、明らかに長髪を左右に分けたものであつて、丸刈とか短い髪とかいうものではない。したがつてこの写真に現われた特徴は中村が供述しているところとは重要な点でくいちがいがあるわけで、なぜこのようなくいちがいがあるのかは十分検討を要するところである(もつとも、右の写真が、いつ、誰によつて、どこで撮影されたかは、記録上、明らかでない。しかし、目撃者に対して同一性確認のためこれを示している以上は、事件当時と同一の状態のものであると考えるのが自然で、それが当時と違うものであるということを窺わせるものは証拠上存在しないばかりでなく、かえつて右山口調書に徴すれば、捜査当局は被告人村田が事件当時も写真のように髪をのばしていたことを前提として中村に供述を求めていたことが認められるから、右のくい違いは依然として解明されないのである。)。

この頭髪の点につき中村貴高がその以前にどう述べていたかをみるのに、同じく当審において取り調べた同人の司法警察員大森尚三に対する同年五月二日付供述調書には「私が懐中電燈で照らした二番目の男の人相は丈五尺三寸位頭髪は丸刈の様に見え」と記載されており、これに対し前記の山口調書には「先日は丸刈のように見えたと申上ましたが、この点は私も驚いて居たのではつきり憶えて居なかつたので、この写真(調書末尾に貼付された被告人村田の写真を指す。)によつて頭は丸刈でなかつた事をはつきり気ずきました。」と記載されていて、大森調書の供述もさほど断定的なものではなく、山口調書においてその点がはつきりしたという形になつて一応その間の説明ができているようにみえる。しかし、弁護人の所論にかんがみ、右大森調書を点検するのに、同調書中の「丸刈の様に見え」とあるうちの「の様に見え」とある五文字を他の部分と比較すると、筆跡は同じのように思われるものの、インクの色が明らかに違うし、なおこの五文字だけが小さい字で五行目の下端に収まるように書かれてあるところからみても、この部分はあとから挿入されたものであることは明らかで、ことにそのインクの色が明らかに違うことは、この部分が調書作成時よりあとに書き加えられたのではないかという疑いすら生じさせるのである。そして、このことと、中村がその後原審証人として前記のように「髪の毛はのばしていなかつたのではないかと思う。」「髪の毛はむしろ短かつたと思う。」「丸刈か、ないし髪が短くて」とくり返し証言していることとをあわせ考えれば、右大森調書は本来「頭髪は丸刈」と断定した趣旨のものであつたのではないかという疑いは一層強く、そのことはまた丸刈りもしくは短髪であつたとの中村の印象・記憶がきわめて強いものであつたことを物語るものだということができる。そうしてみると、前記山口調書において中村が村田の写真を見て、自分の目撃した人物と同一だと述べたその供述は、前記の顔の輪郭の点をも加えて考えるとき、その重要な点で根拠を失うといわなければならない。しかも、右山口調書が作成された六月二〇日は、すでに被告人福沢、同村田、同西村が逮捕され、それぞれ伊那税務署事件につき自白したのちのことであつて、捜査当局として中村が当夜目撃したのは被告人村田に相違ないと思つていたであろうことは容易に推察されるところであり、また山口調書において同人に示した写真の裏面には被告人村田の氏名が書かれてあるが、この事件に当然深い関心を持つているはずの中村として被告人村田がその前に本件の容疑者として逮捕されたことを新聞などで知りその名を記憶していることも十分考えられるところであるから、これらのことが相まつて作用して前記のような写真の確認供述となつたのではないかという疑いもまた払拭し去ることはできないのである。

そうであるとしてみると、中村貴高が前記山口調書において被告人村田の写真を示されこれを当夜目撃した人物と同一だと述べた供述は、その正確性に重大な疑問が存するといわざるをえず、したがつてまたこの点に関する同人の前記六・三〇相沢調書および公判における各証言もまた同様であるから、これを採つてもつて同被告人の有罪認定の証拠とするには多分に躊躇されるものがあるといわなければならない。しかも、そればかりでなく、前記のように中村の目撃したという人物の顔の輪郭と頭髪の状況についての中村の印象がかなり強かつたと認められ、同人がその写真確認後も同様のことをくり返し述べていて、しかもそれが被告人村田のそれと相違している事実は、当夜税務署前に現われた挙動不審な人物がむしろ同被告人とは別人なのではないかという疑いを抱かせるものであつて、このことは、被告人西村とともに火炎びんとダイナマイトを携帯して伊那税務署へ赴いたという村田自白の信憑力、ひいてはまたこれと同趣旨の西村自白の真実性に疑いを投げかけずにはおかないのである。

四  ダイナマイトを入れた空びんに関する被告人村田、同西村、同福沢の各自白の真実性について

被告人福沢、同村田、同西村の自白によれば、本件において被告人村田、同西村が伊那税務署に持参したダイナマイト二本は四月二九日に被告人福沢から同村田に手渡され、このダイナマイトは同夜遅く荒井神社の付近で被告人村田から同西村にガラスびんに入れて渡され、同人らが税務署襲撃に失敗した二、三日後に被告人西村がこれを福沢に手渡し、被告人福沢は夜これを天竜川に捨てたということになつている。しかし、三名の供述調書を仔細に点検すると、これらの点に関する右の各自白には、いくつかの点において解きがたい疑問の存することが発見される。

(一)  ダイナマイトを入れた空びんの出所について

被告人福沢は、この点につき、初め六・一八相沢調書においては、ダイナマイトはびんに入れないで村田に渡したのだが、その後西村がこれを自分に手渡したときは、ダイナマイトはせんべいを焼くときに使う薬品入れのガラスの口の大きい空びんに入つていたと述べていたところ、翌日の六・一九西沢篤志調書では、前日の供述を覆えし、びんを調達したのは自分自身である、すなわち止宿先の原方の縁下にたくさんあつたびんの中から薄青色のガラスびん一個(高さ一八センチメートル位、直径八センチメートル位、口径三センチメートル位)を探し出し、これとダイナマイトを被告人村田に渡したと供述するに至り、さらに自ら作成した同日付答申書ではわざわざそのびんの図まで書いて示しているのである。ところが、その翌日の六月二〇日に被告人村田が真島巡査部長に対し「四月二九日に被告人福沢からダイナマイトを受け取つたのち、これを入れるびんを探すため夜小沢川尻のごみ捨て場へ行き、そこにあつたサイダーびん一本を拾い、口が小さくてダイナマイトが入りそうもなかつたので、入るぐらいの大きさにびんの口をこわして持つて帰つた」という趣旨の供述をし、さらにその翌日の六・二一中村調書でも同趣旨のことを述べるや(ただし、ここでは拾つたびんを「サイダーびんかビールびんかその位のびんで白つぽい色のしたびん」と述べている。)、被告人福沢の供述はさらに元に戻つて、前回村田にダイナマイト等とともに薄青色のガラスびんを渡したと述べたのは間違いで、それは私方にあつたびんにダイナマイトを入れて使用法を説明したため、村田がそのびんを持つて行つたように思い違いをしたのだ、と前の供述を訂正している。したがつて、これによりこの点に関する被告人村田、同福沢の供述は一応一致したことになるわけであるが、しかし、なぜ被告人福沢の供述がこのように再々変転したのかはまことに不可解だといわざるをえない。以上の各供述はいずれも同被告人が被疑事実を自白した際のものであるから、自白が真実であるとすればこのびんの件についてだけことさらにうそを言うということは考えがたく、そうすれば残るは記憶違いということだけであるが、その事実からまだ二か月もたたない時期においてそのような記憶違いがはたして起こりうるものであろうか。びんを渡したことはないという最初の供述も、その内容からみるとかなり確かな記憶に基づいているようにみえるのに、これを変更した次の供述もかなり具体的で、ことにその形状をみずから図に描いてまで説明しているのである。そして、さらにこの供述をひるがえした第三の供述が被告人村田の自分でびんを入手したという供述があつた直後になされているところからみると、取調官のいうなりに供述を変えたのではないかという疑いも生じてくるのであつて、そうなると第二の供述が依然として真実なのではないかという疑問もぬぐいきれないことになる。さすればそれと反する被告人村田の前記供述の真実性もまた動揺を免れなくなることは、否定することができない。

(二)  右の空びんの形状について

また、前記引用のように、被告人村田はダイナマイトを入れるためにびんの口を割つたと述べている。ところが、ダイナマイトを入れた右のびんを受けとつたという被告人西村も、さらに同人からその交付をうけたという被告人福沢も、口が割れていたとは一言も述べていないところであるし、ことに被告人西村がその六・一九答申書で問題のびんを図示したのを見ても、びんの口が割れていたものとはとうてい思えない。

次にびん全体の形状についてみると、被告人村田の六・二一中村調書は前記のように「サイダーびんかビールびんかその位の白つぽい色のしたびん」と述べているのであるが、被告人西村の前掲の図示によると、「白色ビン」と書かれてある点においては右の被告人村田の供述と一致するところがあり、その高さは約二〇センチメートル、底の直径五センチメートル位、口の直径三センチメートル位となつているものの、その描かれたびんの形状はサイダーびんやビールびんとは思えないような感じのものであり、また、福沢自白によれば、被告人西村からのちに渡されたダイナマイトの入つているびんは前記のようにせんべいを焼く時に使う薬品入れのガラスの口の大きい空びんだつたというのであつてなんびとにも一見明らかであるサイダーびんもしくはビールびんのようなものであつたと言つておらず、同人の六・一九答申書中の第三図によると、びんの高さ一八センチメートル位、直径八センチメートル位、口径三センチメートル位というのはともかくとして、それは薄青色のガラスびんであつたというのであり、その形状もサイダーびんやビールびんとは全く違う形に描かれているのである。

ところで、被告人村田、同西村、同福沢の各自白を信用するとれば、被告人西村が同福沢に渡したというガラスびんは、いうまでもなく被告人村田が小沢川の川尻で拾い四月二九日夜に同西村に渡したものと同一物でなければならないわけであるが、その同一物であるはずのびんの形体、色、口の状態などにつき右三名のいうところがこのように相違しているのはなぜであるか。各人の供述が相当具体的で図に形状を示したりしているだけにこの疑問はどうしても解明されないのである。

(三)  右のびんを被告人福沢に渡した場所について

また、被告人西村が同福沢にダイナマイト入りのびんを渡した場所についても、西村の六・一九洞口調書によれば、西村は税務署襲撃に失敗したのち、友人と共同経営していたユマニテ書房の前の下水のふたの下にダイナマイト入りのびんと硫酸の入つたインクびんとを隠しておいたところ、五月四日ごろに被告人福沢が同書房へ来たので、隠しておいた二つのびんを取り出し、これを店の包装紙と新聞紙に包み、書房の店の奥の土間で福沢に渡したと述べているのに対し、福沢の六・一七西沢篤志調書によると、ユマニテ書房で西村にダイナマイトの所在を聞いたところ西村は「今ここにはないが隠してあるから今晩持つて行く」と言つてその夜ダイナマイト入りびんを福沢の止宿先に持参したというのであつて、明らかに相違している。思うに、これらの供述は右両被告人がいずれも自白している際のものであり、しかもそのいずれであるかによつて得失のある事項ではないから、自白が真実であるかぎりことさら虚偽を言つたものとは考えられず、さればとて、その供述をした時期からみても、またその交付の際の応答ないし状況が具体的に述べられているところからみても、記憶違いということも考えにくい。としてみると、その点に関する両供述の真実性に疑問が持たれてくるのもまた自然であるといわなければならない。

このように、以上挙げたいくつかの点につき各供述の間に不可解な矛盾があつてその真実性に疑問が持たれることは、それらの供述が各自白の一環をなしており、しかもその事実が自白にかかる犯罪事実と密接不可分の関係にあるものであることからすれば、単にその問題となつた部分だけに止まらず、自白全体の信用性をも弱めるものだといわざるをえない。

五  結論

そこで、以上考察したところを総合するに、本件における唯一の客観的証拠というべき中村貴高の供述にはその目撃した人物が被告人村田と非常によく似ているという最もかんじんの点に解くことのできない疑問があつて、むしろ同人が目撃したのは他の人物なのではないかという疑いすらあり、そのことと、前記四で述べた各自白相互間の矛盾とを合わせ考えると、一見真実らしい被告人村田、同西村、同福沢の各自白の真実性にもなお解き切れない合理的な疑いが残るといわざるをえない。そして、それ以外に被告人村田、同西村が伊那税務署前で爆発物を所持した事実を認めるに足りる証拠がない以上は、右の所持の事実は犯罪の証明があつたとはいえず、また四月二六日の金甲竜方における被告人神戸、同李、同福沢、同宮原のこれに関する共同謀議の事実にも疑いがあつてこれを認定することができないことは前記東箕輪村駐在所事件について述べたとおりで、結局冒頭に掲げた原判決のこの事件に関する認定事実はその証明がないことに帰するわけであるから、これを有罪とした原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認があることとなり、論旨はこの点においても理由があるというべきである。

第七むすび

以上説明したところにより明らかなように、事実誤認の論旨はいずれも理由があるから、その余の控訴趣意につき判断するまでもなく、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条に従い、原判決中被告人らに関する各有罪部分を破棄することとし、同法四〇〇条但書を適用してさらに次のとおり判決をする。

被告人らに対する各関係の公訴事実は、すべて前記説示したようにその犯罪の証明が十分でないから、刑事訴訟法三三六条後段により被告人全員に対し無罪の言渡をする。

(別紙) 本判決の略語例

駅前派出所――国家地方警察辰野地区警察署辰野駅前派出所

辰野警察署――国家地方警察辰野地区警察署

東箕輪村駐在所――国家地方警察辰野地区警察署東箕輪村巡査駐在所

高遠警察署――国家地方警察高遠地区警察署

非持駐在所――国家地方警察高遠地区警察署美和村非持巡査駐在所

伊那警察署――国家地方警察伊那地区警察署

検察官弁論――東京高等検察庁検察官が提出した昭和四六年一二月一七日付「弁論要旨」と題する書面

弁護人反論――弁護人側が提出した「検察官弁論にたいする弁護団の反論」と題する書面

証人尋問調書、供述調書、検証調書、鑑定書、証拠物は、左のごとき上段の表示による。

各書類の日付は、すべて昭和二七年のそれであり、それ以外の年度分は、当該年度を示すことにする。たとえば、三四・五・三〇とは、昭和三四年五月三〇日を意味する。

(イ) 証人尋問調書

甲の原審(三回)証言――甲の原審第三回公判調書中の証言の記載

甲の原審(準備)証言――甲の原審証拠調期日調書中の証言の記載

甲の原審(準備。三二・一一・二一)証言――甲の原審証拠調期日(昭和三二年一一月二一日)調書中の証言の記載

被告人乙の五・一三草深調書――被告人乙に対する昭和二七年五月一三日付裁判官草深今朝重の証人尋問調書

(ロ) 被告人ないし参考人の供述調書

被告人甲の五・一中村調書――被告人甲の司法警察員中村泰次に対する昭和二七年五月一日付供述調書

その他、洞口、青木、唐沢、川又、真島、関、中島、木村とあるのは、司法警察員たる洞口拓佑、青木雪雄、唐沢郁英、川又正心、真島理一郎、関貞夫、中島実三、木村安雄を指し、また西沢篤己、西沢篤志とあるのは、いずれも司法警察員の両名を指し、熊井、小林、相沢とあるのは、検察官たる熊井光男、小林幸英、相沢二平を指す。

乙の五・八熊井調書――乙の検察官熊井光男に対する昭和二七年五月八日付供述調書

(ハ) 検証調書

四・三〇宮坂検証調書(辰野警察署)――司法警察員宮坂敞憲作成の昭和二七年四月三〇日付検証調書(辰野警察署関係)

四・三〇宮坂検証調書(東箕輪村駐在所)――司法警察員宮坂敞憲作成の昭和二七年四月三〇日付検証調書(東箕輪村駐在所関係)

四・三〇西沢検証調書――司法警察員西沢篤志作成の昭和二七年四月三〇日付検証調書(非持駐在所関係)

(ニ) 鑑定書

五・一七等々力鑑定書――警察技官等々力栄一郎作成の昭和二七年五月一七日付鑑定報告書(辰野警察署関係)

五・二三等々力鑑定書(豚小屋関係)――警察技官等々力栄一郎作成の昭和二七年五月二三日付鑑定報告書(豚小屋関係)

五・二三等々力鑑定書(東箕輪関係)――警察技官等々力栄一郎作成の昭和二七年五月二三日付鑑定報告書(東箕輪村駐在所関係)

六・二岩井・久保田鑑定書――警察技官岩井三郎、同久保田光雅の共同作成の昭和二七年六月二日付鑑定書(豚小屋関係)

六・二三等々力鑑定書――警察技官等々力栄一郎作成の昭和二七年六月二三日付鑑定報告書(非持駐在所関係)

三四・二・五隅田鑑定書――隅田隆太郎作成の昭和三四年二月五日付鑑定書

三四・五・三〇山本鑑定書――山本祐徳作成の昭和三四年五月三〇日付鑑定報告書

三四・八・二二藍原鑑定書――藍原有敬作成の昭和三四年八月二二日付鑑定書

四四・九・一〇石倉鑑定書――石倉俊治作成の昭和四四年九月一〇日付鑑定書

四四・一〇・五服部実験報告書――服部順治作成の昭和四四年一〇月五日付「導火線点火による爆発実験」と題する実験報告書

四四・一二・一五秋谷鑑定書――秋谷七郎作成の昭和四四年一二月一五日付鑑定書

四五・八・八日下部鑑定書――日下部正夫作成の昭和四五年八月八日付「導火線の燃焼状況および燃焼音について」と題する鑑定書

四六・六・三〇畑鑑定書――畑敏雄作成の昭和四六年六月三〇日付鑑定書

四六・一〇・一八衣山鑑定書(東箕輪関係)――衣山太郎作成の昭和四六年一〇月一八日付東箕輪村駐在所事件に関する鑑定実験報告書

四六・一〇・一八衣山鑑定書(非持関係)――衣山太郎作成の昭和四六年一〇月一八日付非持駐在所事件に関する鑑定実験報告書

(ホ) 証拠物

証一三号――東京高裁昭和三六年押第一四七号の一三

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